絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

『コンスタンティン』続き「マクガフィンについて」

 バカは難しい言葉で目をくらませた!と思ったらプライベートモードになった!

シニフィアンの羅列のみでは、真のシニフィエに到達できない見本のような映画だ。

 シニフィアンというのは、言語学者ソシュールさんが提案した「意味するもの」のことで、シニフィエというのは「意味されるもの」のこと。この文章がバカに見えるのは、シニフィアンがまるで単体でふわふわ漂ってるみたいな書き方をしてるから。何でこういう発想になるかというと、こういうこと。
 椅子という単語は「ある程度の高さがある物体」というシニフィアンと「座ることができる」というシニフィエで成り立っている。そうだな、そこらへんに転がってる石は、皆が思っている「椅子」じゃない。その石は「ある程度の高さがある物体」というシニフィアンが椅子と似ているけど「普通は座らない物体」というシニフィエが椅子とは違うから。でもね、その石に座って「いい椅子だなあ」って言ったひとを見て「それは椅子ではない。シニフィアンの羅列のみでは、真のシニフィエに到達できない」と説教したからといって、別に何かを解決したことにはならないの。だって、その石は椅子じゃないけど、そのひとにとっては椅子だったんだもの。
 そう、そこら辺に転がってる手ごろなサイズの「石」は、座る人間がいるだけで容易に「椅子」になるけど、大勢が使っている「石」ということば自体の意味は変わらないんだ。誰かが座ったからって石が椅子になったら、他の座らないひとが困るもんね。
 で、映画『コンスタンティン』の中に出てきた十字架や聖書はどうだったか?うん、見たひとはわかると思うけど、しっかりとその役目を果たしていたと思う。吸血鬼映画や、狼男の映画と同じくらい、正しい十字架や聖書の使い方だった。つまり羅列された記号は、皆が思うような意味を正しく伝えていたってわけ。
 どうも、かれが言いたかったのは「十字架とか聖書とか出してるけど、正しいキリスト教の映画じゃないよ」ってことなんじゃないかな。それはシニフィアンなんて言葉を使わなくても充分伝わることなんだけどね。とにかく、そもそも正しいキリスト教の映画ではないものに対して「正しくない」という批判をむけるのは間違っておるね、オホホ。
 あと、予断だけど、こういう記号論の用語なんかを突然使い出すひとには注意した方がいい、何かを言っているようでいて、その実何も言ってはいない場合が多いからね。id:PreBuddha氏がほんとうに言いたいことは、後段で明らかになるよ。
 まずは中段に進もう。

内田樹の上のことばから解かるように、地獄の死者たちのエイリアンのような描写は死者の安らぎを奪ってはいないか。エンディングロールのあとのラストショットは、「喪の儀礼」になっているから観る者は救われるのだ。「テーマ」に深く関連していることは自明である。

 地獄が死者の安らぎを奪うのは、それが地獄だからだよ!それ以外の理由はなありません。古今東西死者を安らがせる地獄は存在しないっ。死者を安らがせる場所、それは地獄ではないから。
 内田氏が言いたいのは、死者への弔いの儀式について。誤解しちゃだめ。そして、ラストショットは蛇足だ。必要がないからこそおまけとしてうれしいのだ。じゃあこの映画の『テーマ』は何だ、という話になるけど、id:PreBuddha氏はこの答えを書かない、氏の内部では自明の事柄だから。ほんとうにそう?どうも、わかってないんじゃないの、としか思えないんだけど。
 まあいいや、さあ後段を読もう。かれの言いたいことが書いてある。

コンスタンティン』には、残念ながら多くの哲学者たちが関心を抱くようなテクスト的要素が見られない。映画の文化論的な二次効果が期待できない作品ということである。

 なんだ、構造バカか、とブラウザを閉じないでほしい。こういう「二次効果」への幻想を抱く映画の見方は、中学生等を誘惑する、危険なものなのだ。だから、はっきりと書こう、哲学者は何にだって関心を抱けるし、何からだって深遠な意味を引き出せる。それが仕事だから。『コンスタンティン』から深遠な意味や哲学的考察を引き出せないのは、id:PreBuddha氏に才能がないだけであって、映画の責任じゃない。
 というわけで最後に蛇足だけどくだらない部分に突っ込みを入れて終わりにする。

「身銭を切って」観た者として、あえて一言加えるとすれば、「ロンギヌスの槍」が「マクガフィン」(ヒッチコック)になりえなかったことが、致命的である。特にこの種の映画にとって、いかに「マクガフィン」が重要であるかは、ヒッチコック映画(全作品)やスピルバーグの映画(ex.『失われた聖櫃』)を見れば分かる。

 マクガフィンというのは、ヒッチコックが考えた「登場人物にとっては重要だが、観客にはそれが何であるか明かされないもの」のこと。スパイものなんかに出てくる「取ったり取られたりしているマイクロフィルム」なんかがそれ。マイクロフィルムに何が写っているかは関係ない、ただそれが重要だと観客がわかればいい。物体である必要もなくて、主人公が陥ってる状況なども指すんだそうだ。
 たぶん、このひとの書いてる「マクガフィンになり得なかった」ってのは、ロンギヌスの槍が何なのかを劇中で説明していたからなんだろう。だけどさ、ロンギヌスの槍って、そもそもマクガフィンではないよね。なぜなら、槍の役割が明かされなければ、物語が進まないから。その「マクガフィンではない槍」を指して「マクガフィンではない」と批判するのは勝手だけど、意味ないなあ(こんなのばっかりだ!)。
 さてそこで提案。この映画のマクガフィンは「肺ガン」だ、というのはどうだろうか。なぜコンスタンティンが肺ガンになったのか、ほんとうの理由は誰も教えてくれない(皆「当たり前だ」とはぐらかす)、だけど肺ガンは彼を死へと向かわせ、行動を起こさせる。肺ガンに関する医学的な説明はなく、神学的な解釈も行われない。観客はコンスタンティンの「肺ガン→死ぬ→一回自殺している→地獄行き→嫌だ」という連想を、何の疑問もなく受け入れることができる(劇中で何度も「自殺したヤツは地獄に行く」という説明がされている)。
 結果は見てのとおり。医学的な説明は何もされないまま、ただ物語の流れにそって、コンスタンティンの肺ガンは○○によって○○される。まるで、スパイの手によって主人公の体に埋め込まれたマイクロフィルムが、別のスパイの手に渡るように!
 これが正しいマクガフィンのありかたなのだ!なんてね。
 読めばわかるとおり、それがわかったからといって、何の意味もない。ただ面白さが増すだけ。そう、映画というのは、とても面白いのだ。素直に見ても面白いし、ヤヤコシク考えても面白い。面白い映画は哲学的考察なんてしなくても充分面白い。だから、哲学的考察ができないから面白くない映画だ、なんて批判は意味がない。わざわざつまらない観方をして「こんな映画を製作してはいけない。」なんて書かないでほしい。『コンスタンティン』は、面白い、いい映画なのだ。