絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

id:kanose:20050222
 適当に書いたことに目くじら立てるな、というご返答。わざわざすみませんでした。
 で、再言及すると気になった点がひとつ。

いまやオタクの大多数は歴史を知ろうと思わない人たちだ。
(中略)
歴史感覚の欠如に関しては、別にオタク特有の問題ではなく、サブカルチャー全般において起きている問題なんだけど、そこまでいれると大きな話になるのでとりあえず今回は言及せず。

 前項で希望などと書いたのであるが、ほんらいは希望も絶望もないのだとぼくは思っている。歴史認識が甘いとか、世代格差があるとか、そう感じるのは思い過ごしなのだ。なぜなら、サンプルには必ず偏りが出るから。
 たとえば「未来派」という芸術運動は1909年にイタリアでマリネッティらによって興された。それらの記録は書物で学べるし、ネットでも多くの資料を目にすることができる。ところが坂本龍一の『未来派野郎』について学ぼうと思っても、曖昧な時代の雰囲気までを活写した文章に出会うことは少ない(『未来派野郎』手に入りました〜みたいなのばっかりなのだ!)。
 そこで、両方の『未来派』をリアルタイムで知ることのできなかった世代には、知っている連中と、知らない連中の二つが生まれる。それは重要なことに見えるかもしれないが、二つある、という、ただそれだけのことだ。ことさら「歴史観の欠如した世代」をあげつらうことはない。なぜなら、当のぼくたちだって、もはや正しい歴史を伝えるための言葉、ほんらいの日本語を書いても喋ってもいないからだ。平安時代には濁音も半濁音もなかった、そのずっと前には記述するための文字がなかった、伝達はすべて口伝であった。ぼくたちは日々改変される記述技法の中で生きているのだ。
 情報は変化しない、情報を記述するために脳で翻訳する作業が、情報を変質させるのだ。その変質を指してひとは「情報が変化(劣化)した」と言うのである。
 いまやオタクの大多数が歴史を知ろうと思わない?いまや?それはいつの世代と比べてそう思うのか?
 違いなどはない、比べているのは世代ではなく「自分」と「他人」なのだ。