絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

あなたの血液型性格判断関連の議論

id:screammachine:20041126のコメント欄より。

# TANAKA 『科学も血液型占いもさほど変わらないでしょう。一般的なひとにとっては科学も結局その思考過程や論理を全て理解しているわけではなく、結論部分だけを「信じて」いるわけですから。あと、意味を答えるものではなく、万人が理解しやすい理屈、定義をつけるという点では科学もあまりかわらないでしょう。』
# screammachine 『そうですね、確かに科学のもとはオカルトである錬金術ですから、似たものであることは確かですね。だけど、犬と犬の置物が「似て非なるもの」であるのと同じように、似ているからといって、同じであるとは言えません。似ているものを同じだと推定するのが占いなら、似ているものの差異を読みあげるのが科学だと言えるでしょう。』
# TANAKA 『んー、過程というものを考慮しないで原因と結果だけを記憶するような人にとっては、科学もオカルトも、いずれにせよ同一の結果を導くと思うのですよ。「妄信」ですね。そのときは「似てる」ではなく、「同一」だと思います。それはともかく。
信仰が、妄信に変わってしまうのは、その対象がオカルトであるとか科学であるとかが問題なのではなく、そのプロセスに対する意識のありかたではないでしょうか。あるいは、他人の貼ったレッテルをその貼った経緯をすっとばして鵜呑みにしてしまう態度といいましょうか。だからプロセスを知らない一般人にとっては、先端科学なんていうものは感覚としてはオカルトですよ。神秘的であるし、超自然的にも見えます。例えば飛行機にのるなんていうのも、私などにとっては少なからず超常的な体験なわけです。そのとき私は理屈はわからないけど、航空力学がどうのと言われれば、なんとなく納得するんですね。たぶんこの「なんとなく納得する」という感覚は、昔のひとが風伯が風を起こすと言われて納得する気持ちと変わらないと思うのです。
似ているものを同じだとするとか差異を読み上げるとかは、この際あまり関係がないでしょう。犬と犬の置物の違いを読み上げるのが科学なら、その共通項を取り出すのも科学ではないでしょうか。差異を求めるにしろ、共通項を取り出すにしろ、目指す目標はなんでもいいんです。ただ、その結論に至ったプロセスを客観的根拠に基づいた証明をするか、主観的、観念的な方法で結びつけてしまうか、というのがこのお話の焦点だと思います。
血液型占いにしても、A型の人がみな同じと言っているのが問題なのではなくて、みな同じという結論を出すのに十分説得力のある説明がないのが問題なのですよね?もし、いかなる追求にも耐えうる理論とデータがあるのならば、少なくとも科学的にはどんな結論が出ようとなんの問題もないわけです。その状況で、「血液型によって性格が傾向を持つはずがない。人間が四種類で大雑把に分けられるなんてナンセンスだ!」と、プロセスを無視してただ結論に対する皮膚感覚のみで否定したとすれば、それこそオカルト的な思い入れで地動説や進化論を頭から否定した教会の態度と変わらないですよね。
科学もオカルトも、仮定を立て、それに至るプロセスを提示するまでは同じだと思います。しかしそのプロセスの妥当性を判断する方法が、科学の場合は「客観的な傍証」であるのに対して、オカルトと呼ばれてしまうのは「主観的な思いこみ」だと思います。
ただ、この「主観」「客観」は時代において変化するものだと思うんですよ。錬金術の例をあげてますが、私はあれは当時としては科学だったと思っています。現代ではその理論体系はあまりにも思いこみや妄想が多すぎてオカルトに見えてしまいますが、それは観察や検証の技術も思想も発達していなかったからだと思います。今後それらが発達して、もっと新しい厳密な視点が生まれたら、今の科学というのも、なんて主観的に補完された部分が多すぎるのだろう、オカルトだ、と感じられてしまうかもしれません。
結論として、オカルトと科学という概念が対立するとすれば、保守と革新という意味合いでしかないと愚考するのですがいかがでしょう?

コメント欄に長文申し訳ありません。』
# screammachine 『そうですね、大陸移動説も地球内部の検査が進んで立証可能になったもので、提案当時はトンデモ扱いですからね。進化論や地動説など、今では自明の理とされているものが、当時は「証拠のない妄言」として扱われたことも想起できるでしょう。
ただし、ここで大切なのは、血液型占いが上記の仮説と同じであると証明するものは何もない、ということです。上記仮説を退けようとした「天動説」も「斉一論」も、絶え間ない調査によって限りなくゼロの可能性へと扱いが変わりました。なぜなら、それらの説はプロセスを証明できず、正しいという前提のもとに考えられていたからです。プロセスが明確でないものを、結論以外でどう評価すればいいのでしょうか。
オカルトは科学の前身ではありません、前に進まない科学風のものいい、それが疑似科学(近代オカルト)です。
血液型占いによって生まれるのは、群れに対するモルヒネとしての効果だ、という結論に異論があるのなら、それ以外の(あるいはそれを否定する)、群れにとっての利益を主張してください。
よろしくお願いします。』
# TANAKA 『血液型占いに科学的根拠がない>不安を取り除くために必要
という、単純化された図式には特に異論はないんです。というか、それは普通のことですから。
だけれど、そのプロセスにおいては結構普通でない個性的な主張をされているようにお見受けしましたが。
たとえば、血液型を信じるひとはその結果による群れの予測が出来ないと書いておられますけど、その主張のほうが「占いを信じる人は心の安定がほしいだけ」という主張よりもずっと独創的に感じましたが。
現象と結論に、みなが受け入れやすい一般的な事象をいれて、そのプロセスに無茶なものをつめこんでしまうという、その主張方法が、私はオカルト的だなと感じたのです。納得できる結論を提示して、プロセスも一緒に認めさせようとするのは占い師や手品師がよくやる超能力者騙りのやりかたと同じですよ。ご存じだと思いますが。
1+1=2は正しいと思いますが、1+1は、私の先祖の霊の呪いによって2になる。と言ったら、それはナンセンスですよね?そのプロセスに疑問がある、と誰かが言ったとして、でも2だってことは認めるだろ、2だっていう結論を否定してみろよ、というのは科学的な態度ですか?
あと、あなたは矛盾されてるとおもうんです。犬と犬の置物の差異を訴え得るのが科学なら、A型とB型の差異をみつけるのは科学ではないんですか?分類どうこうが問題じゃないですよね?血液型占いの欠点は手段が正統じゃないってことで、ここはokですよね?あと分類学には科学的意味合いはないんですか?
質問が多くなりましたが、要するに私の結論は一つだけです。あなたはオカルトを批判してますが、オカルト的手法でオカルトを批判しているようにお見受けしました。』
# itkz 『screammachineさんの意見は、
「人々は情報で群れを率いることによって種を繁栄させたと仮定する。血液型占いは群れの予測が出来ないので群れにとっての価値は無い。では何故、そんな無価値な情報をこんなに多くの人々が欲しがるのか。それは不確定な情報に人々が怯えるからだ。人々は根拠などどうでもいいから断言してもらうことで安心しようとしている」
というものですよね。
この中で問題なのは、「人々は情報で群れを率いることによって種を繁栄させたと仮定する」と仮定から入っているにも関わらず、論全体が仮定からの演繹であることを忘れて結論を出していることですよね。
しかし「不確定な情報に人々が怯える。だから人々は根拠などどうでもいいから断言してもらうことで安心しようとしている」という部分は正しい。従って、この後半部分の正しさによって前半部分の仮定からの演繹も正しいように見えてしまう。僕もこれは問題だと思います。』
# itkz 『TANAKAさんは「血液型を信じるひとはその結果による群れの予測が出来ない、という意見はおかしい」と言っていますが、これは僕の指摘したscreammachineさんの日記の問題点とはズレた意見ですよね。
TANAKAさん自身、「仮定からの演繹による理論の結論として別の正しい理論を持ってくることで、仮定からの演繹部分をも正しいように見せる」というのは過ちだと主張して、その例として日記の上記の部分を抜粋したのに、肝心の仮定部分を抜粋していません。これでは指摘としては不完全だと思います。
あと、screammachineさんの日記に、僕の指摘した場所以外の問題は見当たりませんでした。ならばその問題点を真っ先に指摘すべきだと思うのですが、TANAKAさんは2004/11/28 02:40のコメントでようやく指摘しています。これは伝わらなくても当然だと思います。』
# itkz 『TANAKAさんの発言には、もう一つおかしなところがあります。
「犬」と「犬の置物」の差異を出すのは正しい行為です。
「A型」と「B型」の差異は既に「A型」「B型」として出ており、これも正しいです。
問題はA型とB型を何の根拠無しに性格という分野で差異があると主張することです。』
# TANAKA 『第三者同士でscreammachineさんの日記の是非を話す形になってしまうと、趣が変わってしまって論点が拡散する気配があるので、避けさせてもらいます。
ただ、一つだけ、これは私の主旨に対する補足という意味で書かせて頂きます。
「問題はA型とB型を何の根拠無しに性格という分野で差異があると主張することです。」
というitkzさんの発言ですけれど、それは私の主張と対立してはいません。
screammachineさんは他者によるシビアな検証を前提に書いてはいらっしゃらないと思うので、私もそれを認識しながら書いているというのを意識して読んで頂けると嬉しいです。』
# screammachine 『いや、誤解あると困るんですが、「他者によるシビアな検証」には大賛成です。しょうじき、ぼくにとってはitkzさんの発言の方がありがたいです。しっかり考えて返答させていただきますよ!』

血液型占いの欠点は手段が正統じゃないってことで、ここはokですよね?あと分類学には科学的意味合いはないんですか?

 質問に答えますよ。okじゃないです。正当な手段で調べると間違いなんだから、血液型性格判断という方法は、間違いですよね。それは欠点というか、推論段階での「血液型によって人間の性格は分類できる」という仮定自体が間違っているということなので、どこをどう直せばよくなる、という問題ではないです。医学としての血液型分類と、医療とは関係ない血液型性格判断を、なぜ同一視するのかがぼくにはわかりません。
 あと分類学は科学だと思いますけど、それも新しい論拠が出れば変更されるものではないですか。提唱された初期の段階から、様々な証拠が提出されるなか、一向に変化しない血液型性格判断の類型を、分類学の悲劇と同等に語るとはあまりに失礼な行為ではないでしょうか。

質問が多くなりましたが、要するに私の結論は一つだけです。あなたはオカルトを批判してますが、オカルト的手法でオカルトを批判しているようにお見受けしました。

仮定から入っているにも関わらず、論全体が仮定からの演繹であることを忘れて結論を出していることですよね。

 だから最後にオチをつけているではないか。そのオチが不謹慎だと怒られるならば仕方がないけど「真面目な話のあとにギャグを言うな」とは、あまりに不遜ではないだろうか。断定したのは笑いのためであり、血液型性格判断を信じるひとからの返答さえもらえれば、そうはならなかった。このような結論を望んだのは、むしろ答えを出さない血液型性格判断を信じるひとではないのか。ぶぶぶう。
 ぼくの疑問はこれだけだ。
 なぜ血液型性格判断は、誰もが口軽くそれを話題にするのだろうか。人種差別の話題や、宗教の話題は避けても、血液型による性格分類は容易に話題とされる。その秘密が知りたいのだ。だから、血液型性格判断には、信じる以外に効用はないと主張されると、困ってしまう。「モルヒネ以外の効用」があるのなら、教えてほしい。
(乱文誤字脱字御容赦願)