絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

動物化するポストモダン」という本を読まないとだめだよ!と内なる精霊が言うので読んだことがあって、その感想というか。
 たぶんこの本は「昔は大きな物語があってそれを想像して楽しんでいたけど、今はデータベース化してパターン認識みたいに楽しんでるから動物みたいだよ!」ってことを書いてるんじゃないかなあ、よくわからないけど。
 それで芸人にあてはめてみた。「やすきよ」や「阪神巨人」の漫才は、コンビの基本的な構造を理解していないと楽しめない場合が多い、やっさんは乱暴者で酒飲みで警察の世話になった、とか。観客は小さなネタの隙間から、大きな物語を想像して楽しんでいた。たぶん。
 それがデータベース的な世界になると、ネタそれだけで笑えるようになる、のではなかろうか。
漫才=(ボケ+ツッコミ)×n+α
だとすれば「+α」の部分はキメネタや家族ネタなどの普遍性のあるものと時事ネタなどの普遍性の低いものにわけられる(「嫁さんブサイク」は嫁さんの顔を観客が知らない場合は普遍性を持つが本当にブサイクである場合は後者になる)。どちらがネタとして優れているかは場所と状況によるけれども「芸」を独立した作品としてとらえるならば「パターン認識(崩し)」を基本とした前者のネタの方が優れていると言えるだろう。
こうなってくると「大きな物語の消失」はMANZAIブームを終焉させた原因であり、結果的には良かったことなんじゃないかと思う。

まあ本当は「動物化=芸人が出てきただけで笑う客」なんですけども。
あと僕は最近のテレビを見てないのでもっとテレビを見ている人が論じたら面白いと思った。というかもう既にあるような気がしてきましたよ!わあ!