絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

時を駆けるオカマの話ならどれだけ面白かったことか。

 仕事つながりで、某プロデュース公演を池袋まで観に行く。これがヒドい脚本で、倒れた。役者の上手下手だけではない、やはり脚本がひどいと救いようがなくなるのだな。粗筋は「同窓会で集まった四人の男女。十年前に死んだ恋人の事を無理に忘れようとする主人公は、十年前へタイムスリップして死ぬ前の恋人に再会する。しかし時の流れには逆らえず、死んでしまう恋人。再び現代に戻った四人は、前向きに自分の人生を生きることを約束しあうのであった」というもの。最近「近しい死人の面影を直視して前向きに生きる」というプロットを良く見るのだけど、どこかにテンプレートでも配っているのだろうか。

 さて、時間移動という道具は、舞台脚本家にとって、甘い毒のようなものだ。登場人物たちは自分の境遇に疑問を持つから、時と場所と背景を台詞で説明しても違和感がない。ドラマを盛り上げたければ現代へ戻る手段を模索してもいいし、新たな希望を見出した主人公が環境に適応する物語にだってできる。このように便利な道具だからこそ、使うときには細心の注意が必要だ。

 ところが、僕の見た舞台には、便利な道具がゴロンと転がしてあった。時間移動の原因などまったくわからない状態で、登場人物たちは「タイムスリップ」「時空の歪み」などという言葉を使い、自らの境遇を説明した。あたりまえのように過去の人間と話しながら「歴史を変えてはならない!」などと叫んだ。主人公たちは別にSF作家でもなければ科学者でもない、もちろんSFおたくなどという生き物とは程遠いオシャレ人種だ。帰る手立てもないまま、現代社会への愚痴を漏らす彼らは、恋人の死に直面した主人公の慟哭で現代に戻った。たぶん。

 要は脚本家が手を抜いているのだ、オカマ役が出てくれば笑うような客を相手にしていれば、チョロいもんだと勘違いもするだろう。テロだのオウムだのを台詞に混ぜれば、社会派の雰囲気が出ると思いやがって、クソが。ファンタジーにはファンタジーの矜持があるはずだ。SF好きでもない登場人物に、時空なんて言葉を軽々しく使ってほしくはない。主人公の「恋人を救いたい」という想いが時を越えた、でいいじゃないか。それともアレか、時空って一般名詞なんですかいつの間にか。

(追記:関係者に聞いた話では、オカマ役の男は、影響を受けたくないという理由で、オカマバーにも行かなけりゃ、オカマ映画も見ないで役作りをしたらしい。つまり、身のうちから出る真のオカマを探したというわけだ。ごりっぱですね、20いくつまでの人生で、テレビコントの中で単純化されたオカマの姿を見たことがないと言うのならば)