絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

キルビルの感想日記

要約:キルビルを見た。「映画を殺す」というキャッチコピーは、間違いだった。キルビルは、オタクがあたりまえに楽しんでいる映画の見方を、そうでない人にも体感させる素晴らしい映画だった。

 「特撮映画好き」にとって、映画はとはレイヤー構造を持った映像作品である。古い特撮映画、を好む人間には、物事を多層構造で見るクセがついている。子供の頃には気にもとめなかった模型が、大人の目にはハッキリと模型であるように映って見える。これを「普通の映画好き」は否定する、映画は完璧な嘘を志向するべきものであって、嘘臭いミニチュアや安いCGは映画にとって害でしかないというのだ。だが、特撮映画好きはこれを好む、許容するのではない、あきらめるのではない、好むのだ。それは特撮映画好きが子供時代の記憶を追体験する為に特撮を見ているから、ではない。成熟した視点と、子供の頃と同じ感動を味わえる視点を、同時に持っているからだ。
 特撮映画好きにとって、その特撮がどのように作られている嘘の物語であるかは、舞台の上で死ぬ俳優が本当に死んでいないのと同じように、自明である。むしろ、リアリズムのみを追求し、本物の死体を舞台に置くことの方が、よほど子供じみた行為であることが、わかっていただけるだろうか。
 そして更に、特撮映画好きは模型だけを楽しむのではない。一方で大根俳優の演技に失笑し、一方で無表情な怪獣の死に慟哭し、根源的神話的な物語に涙し、科学考証の粗を探し笑う。これらの感情のゆれを、同時に楽しむことができるのが、特撮映画好きなのだ。
 実は、この能力は特撮映画好きだけのものではない。多く映画を観続けていると、どのジャンルを好んでいても、このような多層視点を得ることができる。ミュージカルもカンフーも恋愛も、どんなジャンルでも見続ければ自然とそういう観方が可能になる。これはそもそも、映画が作家個人の作品ではなく、脚本、監督、撮影、俳優、音楽、製作、配給、その他様々な人の手を渡って完成する総合芸術だから生まれる感情術だ。映画を何の知識もなしに観た人間と、膨大な知識を持って見た人間の間には、得るものにも明確な差が生まれてしまう。最近では、一つの映画を解読するのに過去の数十本の映画からの引用を理解する手間をかけなければならないなどと主張する輩もいるほど、映画を観るのに努力が必要らしい。

 でもこれは、嘆かわしいことだ。子供の頃に見たピカソゲルニカは、それが何の為に書かれた絵であるかの知識を持たない僕にもそんな世界を描いているのかってことくらいはわかった。そしてそれは僕に複雑な感動を与えた。絵にはそういう力があって、映画にはないというのか。
 そんなことはない、映画には映画の力がある。

 そこで、キルビルである。CMでは格好よい雰囲気の映像を流し、雑誌やテレビなどの媒体では、間違った日本が描かれているのは、日本の映画好きの監督がジョークでやっていることなのだと説明し、まるで映画通にしかわからないパロディ映画のような宣伝のされかたをしていた。これではまるで、バカ映画扱いじゃないか、わかっててやっていたってバカ映画はバカ映画だ、僕たちの好きな映画を詰め込んだ「キルビル」は、知識のある人間と生ぬるく仲良くするために、そうでない人間にバカにされて笑われるために、日本へやってくるんだろうか。
 僕はこの映画を、上記のような不安な気持ちで観に行った。監督自身は、インタビューで「面白さと恐ろしさの同居する感覚を味わって欲しい」と言っていたが、それは簡単に得られるものなのだろうか?雑多な情報でグチャグチャに煮込まれたこの映画を、観客全員が素直に楽しめるものだろうか?僕は事前情報を得たけれど、知らない部分も多くある。僕自身全てを楽しめるかどうかもわからなかいのだ。
 結論を言うと、OPから数分で、僕の杞憂は霧散した。
 確かに最初、観客の多くは映画をバカにして笑っていた。ユマ・サーマンルーシー・リューの拙い日本語が出るたびに何が面白いのかゲラゲラ笑い、CMで何度も流された場面でクスクス笑い、とても映画をちゃんと観ようという雰囲気ではなかった。「情報の答えあわせ」「仲良し差別クラブ」そんな言葉が浮かぶくらいのひどさだった。「青葉屋」での、滑稽にも見える虐殺が終わり、手摺に立ったユマ・サーマンが叫んだ「命ある者は持って帰りな、ただし、切った手足は置いていけ、それは私のものだ」という台詞を笑う連中には、殺意すら覚えた。
 ところが、青葉屋の二階から雪降る庭に出てから、次第に、客席から彼女達の日本語を笑う声が途切れていくのがわかった。「刀は疲れ知らず」で笑っていた連中が、ユマが切られ地面に転がったときにルーシーがつぶやく「金髪女がサムライの真似したって サムライにはなれないよ」の台詞で黙った(英語だけど)。
 咳払い一つ起きなかった、血を流しながら立ち上がるユマの姿を笑う者は一人もいなかった。色は違うかもしれないが、さっきまでクレイジー88どもの身体から大量に噴き出していたものと同じ血糊なのに、まるでそれは本物の血に見えた。立ち上がり、長い間を置いて一閃、刃を交わす二人。
 脛を切られ、足袋を血で塗らしたルーシーが、日本語で言った。
「さっきは馬鹿にして悪かったね」
 誰も笑わなかった、日本語が上手くなったわけじゃない、皆が下手な日本語に笑い飽きたわけでもない。
 皆、多分わかったのだ、タランティーノが一生懸命リスペクトしている「日本」が、バカにして笑っていたタランティーノの頭の中にある変な「日本」が、よほど現実に映画を観ている自分達より格好いいことに気づいたのだ。そして、素直に、日本で戦う二人の外国人を、その勝負の決着を、食い入るように観ていたのだ。僕はそう思う。

 映画好きが観ている多層構造、それは映画好きだけが観ることを許された世界ではない。タランティーノはそれを作品のかたちでしっかりと世界に見せつけた。だから僕も、もう「マトリックスみたいですね」とか「キルビルみたいですね」なんていう薄い悪意のある感想に腹を立てたりはしない、必死で「こっちが先だ」とか「アレの真似じゃないんだ」とか言うのはやめた。そういう人を、感動させたり笑わせたりするような作品を作ればいいのだ、それは作品単体で可能なのだ。こんなあたりまえのことに気づけないほど、僕の目は腐ってしまっていたのだ。
 僕はもう、特定の誰かに日本映画腐敗の原因をなすりつけるのはやめる、そいつの映画が面白くないなら、面白い映画撮ってそいつに見せてやればいいじゃないか。自分ができないことを人にやれと言うのは、いやしいことだ。その表現形態が違ったとしても、批判対象よりもつまらないものを作って、誰がよろこぶだろうか。