絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

闇黒日記に再び言及します。基本的には華麗に たろたまにあーヽ(´ー`)ノをやられている徳保さんの備忘録平成15年2月9日への勝手な返答になるかと思います。

 論争するサイトの管理人が、論争相手のサイト上でどれだけ罵られようと平気なのに、掲示板やメールでの匿名の一言で閉鎖を考えてしまうのは、その言葉に純粋な悪意や敵意を感じるからだと思います。サイト同士の論争というのは、煎じ詰めれば互いの大義のぶつけ合いです。どんなに間違っているように思える主張でも、その言葉は「正しいと確信して」発せられた言葉なのです。論争の中で罵倒や相手への挑発があったとしても、その根源は悪意に因るものではないのです。論争の種類にもよりますが、どちらかの主張の間違いが正されれば、論争は終わります(だから、論理的思考ができず、論争初期の確信を覆せない人は、グダグダな言い訳をします)。論争後の閉鎖や休止は、勝ち負けの表明ではなく、言葉が通じない相手や関係者への絶望感の表明なのです。

 しかしメールや掲示板への匿名者からの書き込みからは、この「正しいという確信」が読み取れません。正しいという確信のない罵倒や中傷からは、純粋な悪意や敵意が読み取れるのです。純粋な悪意や敵意への恐怖は、それが制止不能である事に起因します。論理が間違っていたるのであれば、論争は(いつか)必ず決着しますが、行為の原理が悪意に因るものならば、その論争は決して解決しません。なぜなら匿名の誰かにとって、論争は手段ではなく目的である(ように見える)からです。純粋な悪意から逃げるには、閉鎖、つまり死ぬしか道はありません。
 この恐怖感を消す為には、匿名の誰かが発した言葉の裏に、匿名ではない誰かの確信を想像すると効果的です。例えば冒頭に引用したリサさんは、僕に対する不快感を表明する理由があり、それを正しいと確信しているのです。だから僕はその主張に対してだけ真摯に返答すれば良いのです。「僕はオフ会は好きではありません。『わあい!』の無意味な多用を謝罪します」と。(これ以上の反論は、リサさんの思想的背景がわからないので、できません)
 僕たちは、主張の裏を読むのが当然だと思って生活をしています。「殺す」の後ろに(笑)を読み取り、「格好いいですね」の後ろに(色々な意味で)を読み取り、被害妄想や加害妄想から逃げながら。
 思想的背景の見えない匿名の罵倒を、人ごみの中で背後から身体的特徴を笑われた場合に置き換えてみましょう。もし背後から罵声を浴びせられたら、その罵声を発した人の確信する「正しさ」を想像して、気持ちを落ち着かせるのが一番精神に良い対応だと思います。
 まるで僕がそういう対応できるみたいに書いてますが、とても難しい事だし、匿名の罵倒にはやっぱり恐怖を感じます。なるべく悲しくなったり怒ったりしたくないので、根本敬的な「世界はとてもくだらないものでできていて、どうしようもないアホな因果で動いている」というのをこれからの信条にしようと思います。それでもどうせ怒ったり泣いたりするので人間って面白いね!(一般論に帰結)


おまけ
ついでに斬鉄剣、あ、リンク間違えた。斬鉄剣さんの話。

彼が方々で笑われたり、徹底的に嫌われたりしているのは、彼の「確信」がその場限りのお飾りに見えるからなのでしょう。彼の文章には多くの矛盾があり、主張したい事があって何かを書いているのではなく、ただ主張がしたいだけに見えるのですね。「世の中には手段の為ならば目的を選ばないという様な、どうしようもない連中も確実に存在する」という漫画「ヘルシング」の台詞(古くは漫画「パトレイバー」での台詞「手段のためには目的を選ばない男だからな」を含む)が、恐怖や滑稽味を同時に生むのは、それが現実には存在し難いと僕らが思っているからですが、実際には卑しいレベルで存在した、というわけです。とうとう書いてしまった、自分への反省文としよう。