絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

眠れない夜に日記を書いて過ごすなんて久しぶりだから思い出のことを書く

 ブログを更新しなくなって随分経つけれど、世間の出来事にそれほど関心がなくなったわけでもないしニュースだって見る、けれど、身近な人との会話から書けることが少なくなったのは確かだと思う。すべてが仕事に直結するようになってしまった、と書くと大げさだけど、何を書いたら大丈夫なのかの基準は曖昧になった。それとなく喋ったことを相手が著作にするかもしれない、自分がセリフにするのかも、と思うと書けなくなる。
 むかし、自分で書いたことがある。書くことがなくなったら目の前のものを描写すればいい、キーボードのよごれだとか、そういうのを書けばいい。たとえば今使っているノートパソコンのキーボードの文字は新しくて透けていて、設定次第では光るようになっているから、いくら打っても母音がこすれて消えることはない、とか、そういうなんでもない事を、自由に書けばいい。そう書いた。なぜ書けばいいのか、書かなきゃいけないのか、それはあの頃もわからなかったし、今もわからない。
 舞台の脚本を書いていて、いちばん悲しいのは何か、いちばん嬉しいのは面白かったと言われることだから、つまらないと言われるのが悲しいかというと、そうでもない。つまらない脚本は書いてないからだ。これは何も、ぼくが自尊心にあふれたおばかさんなのではなく(ぼくが自尊心にあふれたおばかさんである事は確かだが、この場合は)、書き上げたときにつまらないと判断できる脚本は人に見せないからである。どんなに他人から見て「わけわからん」と言われる脚本でも書いた時には「こりゃ最高傑作だ」と思っているのだし、実際そう思わなければ自分の書いた物語を人に見せる事なんてできるわけがない。だから「つまらない」と言われたらそりゃ腹も立つが、悲しくはない、だいたい人の書いたものを読んで感想が「つまらない」だななんてよほどつまらない生き方をしている奴に違いないからだ。話がそれた。
 いちばん悲しいのは、それが人に見られなかったときだ。
 ブログには、そして、その昔からあるホームページの日記というやつには、少なくともそのハードルを低くする方法があった。それは有名人の名前を出すことだったり、有名な事件を題材にすることだったり、今注目されている物件について何か一言物申すことだった。話題になっている事に言及すれば、それについて関心のある人はその記事を読んでくれる。気になる人はコメントをしてくれる。お互いのブログで相手の記事にリンクを貼って殴り合って、何万人かがその記事を見たりした。
 ぼくはしばらくしてから、なんだかそういうのが、嫌になってしまった。自分に何のかかわりもない事にいっちょかみして、偉そうに講釈を垂れるのが似合わないような気がしてしまった。それでも書きたい欲はあるので、マンガについて考えたことを書いたりしたけど、それも本格的な研究をしている人たちの前ではなんだか恥ずかしくてやめてしまった。
 舞台だけは、恥ずかしくなかった。舞台の上に立って演じることだけは恥ずかしくなかった。それなのにぼくは役者として舞台の上に立つことをしなかった、20才の頃に言われたのだ、お前は役者に向いてない、脚本家になりなさい、と。それは呪いのようにぼくにまとわりついて離れなかった。ぼくには何もなかった、ただ自分の体だけがあった。まわりの人は次々とぼくの前を通り過ぎていった。だからぼくは脚本を書いて、それだけがぼくが恥ずかしくなく生きていける唯一の方法で、そのことについて今書いている。
 ぼくに書けることは、何だろう。
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