絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ありがとう、さようなら、またいつか  麻草郁

 自分以外の人間が考えていることは、誰にもわからない。いや、もちろん予想はできる、推測も、憶測も。話をすればたくさんの情報を共有できる。共有した情報から、似たような考えを得ることもできる。でも、自分で考えるように人の考えを理解することはできない。多くの人間が、表情やしぐさ、言葉の端々から、たくさんの情報を無意識下に読み取って、脳内で解釈して生きている。この「読み取る」というのが厄介だ。表情やしぐさは動物的な本能で読み取ることもできるけど、言葉から相手の思考を読み取るには、まず相手の使っている言葉を知らなきゃいけない。有名なたとえとして、こんなのがある。原始時代の人間に「川で魚を釣る」という言葉を理解してもらうためには、前提としてどれだけの言葉を尽くせばいいだろうか? という思考実験だ。まず「川」は「水」が「流れる」場所だ。では「水」とは? 「流れる」とは何か? そして「魚」は「川」で「泳ぐ」「動物」だ。では「泳ぐ」とは?「動物」とは? 言葉の意味を説明するために、また言葉が必要になる。あなたがいつも使っている言葉にだって、その裏には、たくさんの知らなきゃいけない前提条件が隠されている。それでも、知らない者同士で、恐る恐る人間は言葉を交わす。山に住むぼくが、海に住むあの子に、自分の気持ちを伝えようと思う。使っている言葉の本当の意味も何もかも間違いかもしれないけど、それでも相手の気持ちがわかったような気がする、奇跡のような瞬間がある。この物語をとおして、そんな奇跡のような瞬間を感じてもらえたら、ぼくはとてもうれしいと思う。この気持ちは、少しでもあなたに伝わるだろうか。
 人生の貴重な時間を共に過ごしてくれた、出演者、スタッフ、そしてあなたに伝えたい、ありがとう、さようなら、またいつか。