絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ためしに書いてみる

 しばらく舞台の脚本ばかり書いていたためか、どうにも考えるための文章が書けなくなってしまった。10月の脚本が終わったらイベントの構成やらなにやらで忙殺され、次いで11月に上演される舞台の脚本に七転八倒だ。今度のはすごいぞ、なんと15役が入り乱れる1幕3景のシットコム、シークエンス単位で香盤表を色分けしたら、さぞや美しい四色問題の回答になるだろう。
 さて、ものを考えるための文章、たとえば試論と、脚本の違いは何か。試論は、答えだ。もう既にわかっている答えをじっくりと、手を変え品を変え、引用し分析し丹念に書き綴る行為だ。脚本は、その答えを一旦、観客の目に見えないところに隠さねばならない。ともすれば書いているうちに答えを見失うこともあるだろうし、答えを見失うこともあるから逆算して答えを知らないまま脚本を書くときだってあるし、知っている答えに行き着くためにつまらないお決まりの脚本を書いてしまうこともある。なんにせよ、ものを考えるための文章は答えを知らないままに書き進められない、というのがぼくの考えだ。
 てなわけで、答えをすっかり隠してしまったいま、ぼくの頭はからっぽで何もない(ように見える)。なにかものを考えようにも、出来事は頭の上ですらーりすらりと流れていってしまう。そこで、リハビリがてら、浮かんだことばをあまり脈絡もないままつらつら書いていこうと思う。お暇な方はお付き合いいただきたい。

ゾンビとソーセージとビール。

 ゾンビ、とくくられる現代的な「動く死体」の物語について友達と話した。ぼくが「ナイトオブザリビングデッド」のラストを引用しつつ「つまり、ロメロの描くゾンビ的状況の焦点は、いつ人は誰かを殺してもいい存在とするのか?ってことなんだよ、そのブレが恐怖なんだよ」と言うと、友は苦笑した。
「それはわかるけど、でも麻草さんにとってゾンビ的状況とは何か、って話でしょう、ロメロがどうかは知らないよ」
 そう、ぼくにとってゾンビ的状況とは、それにつきる。人はいつ、何がどうなると、他者を死者として認識できるのだろうか。死んでもいいと判断できるのは、どうなったときなんだろう。大好きな人が変わってしまう、知らなかった別の何かになったとき、人は簡単にそれを死者として区別できるものだろうか。というかおれはどこで区別をつけるんだ、そして、つけてきたんだろうか。ビールの美味しい店でソーセージを食べながら、そんな話をした。

フィクションにおける恐怖とは何か。

 友人は幽霊やゾンビなどの「怖い」がわからない、とぼくに言った。彼の思いつく怖い話は、人間の狂気や、強制的な精神の拘束についてのものばかりで、超常的なものは何一つない。ありえないことが映像の中で起こると笑ってしまうらしい。それが死に直結していれば怖がるという理屈は理解できるが、実感として怖くはないと言う彼は「だから麻草さんの作品も怖くはないのだ」とすまなそうに言った。ぼくとは正反対のこの意見にはシビれるものがある。ぼくはガッチガチの無神論者であるが故によくできたホラー映画が怖くてたまらない。それが現実には絶対にない事だと確信しているからこそ、映画の中でその確信が突き崩される瞬間に恐怖を感じるのだ。以前、マンガ家の唐沢なをき氏がフィギュア王か何かのエッセイマンガで「『怪獣なんているわけないだろう!』とさんざん言っておいて、怪獣が現れると「お助けえ」と逃げて、踏み潰されてしまうようなハカセの役を演じたい」といったようなことを(うろおぼえですみません)書いていて、いたく共感したのをおぼえている。
 そんなことを話していると、店から見える通りに、三輪バイクの縦列駐車がはじまった。底面をピカピカとひからせたゴツイバイクの群れはアルコールに浸ったぼくらの脳にいたく強いインパクトを残し「アキラに出てくるクラウンのホラ」「ていうかあれこそ金田のバイク」などといった断片的な会話へといざなった。スウェットを来たまま誇らしげにピカピカのバイクをみせびらかす男たち。まるでフィクションのようだった。

どうなんだろうね。

 このブログをいま読んでいる人たちが、どのような人たちなのかはよくわからない。にしてもよくぞここまで読んでくださった、ありがとう。この断片が少しでも何かの役にたってくれたらいいなと思う。たとえば舞台を観に来てくれたなら、観劇後のちょっとした食事の際にでも脚本家はこう書いていたがおれはこう思ったな、などと考えていただければ幸いだ。おやすみなさい。