絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ツイッターでなうとか言わないぜ!

インターネットVS自分と言う自意識の泥沼で一人寂しくもがいているはずが、テクノロジーの発達によりフラット化した社会のアレで普通の人々や有名人すらも同じ地平でもがいているさまに驚く皆様こんにちは。お久しぶりです、麻草郁です。好きな宣伝大臣はゲッベルス、総統のマグカップが欲しいです。
といった挨拶が何文字だかわかりますか、私いまかぞえたのでわかります。そう、140文字です。ブログの記事であれば140文字など霞のようなもの、言いたいことの半分どころか入り口にすらたどり着けません。ところがそんな不便極まりない文字制限を持つにも関わらず、もてはやされるサイトがある。
ツイッター。数年前にアカウントをとって、最近再開した。思いついたメモを書くことに使っているが、誰かが読んでいると思うと緊張もないとは言い切れない。私などは文字数を制限されてしまうとどうしてもそちらに気がいって、内容にまで心が届かない場合が多い。どんな表現を使うか、使わないかとか。
昨夜まで、面白おかしい妄言やテレビの感想を呟くアカウントがあった。今はない。彼の発言を読みたいと思う者は数万人いて、彼は誰の発言もフォローしていなかった。彼は大きく肥大した自意識を持っていて、誰かの発言を読んでいることで影響を受けた呟きを書いていると人から思われることを危惧した。
ツイッターのフォロー、ブログのトラックバックアクセス解析リファラ。インターネットが人々に与えたものはつながりだが、明確にしたのは「つながってない」ということだ。どこまでいっても理解しあえない奴はいる、誰が悪い?誰も悪くない、ただ思考の方法が違うだけ。奴は縦、俺は横。交わる線。
人が想像できる人間の数はおよそ30人ぐらいである、というような仮説があるらしい。30種類じゃない、30人だ。意見が対立することはあってもせいぜい三つがことだろうし、その理由も推測する通りのことが多いだろう。海に行きたい、山に行きたい、留まっていたい。原始の時代ならそれで良かった。
 
だからおれは、上記したようなことをちっとも呟かない。議論もしない。どこでもドアがどういう仕組みだろうか、とか、髪の毛がどこから出てきたら一番怖いか、とか、天気がいいね、そうだね、とか、そんなことしか呟かない。ということすら決めない。適当に、ただあるがままに、手にしたツールを使う。
なぜなら道具はべんりだからだ。かばんは物がたくさん入ってべんりだ。靴は足が痛くならない、べんりだ。頭痛薬があれば痛くない。車があれば遠くに行ける。望遠鏡があれば遠くが見える。武器があればたくさん殺せる。シェルターがあればたくさん守れる。べんりだ、でも人間は?道具で何かが変わるか?
変わらないが、変わる。箸はべんりな食器だが芸術家ならそれで人を感動させられるし暗殺者ならそれで人を殺せる。問題は使い方だ。持っているだけでは何も変わらない、ところが道具は使えば体を変質させてしまう。その道具にふさわしい形に作り変える。なぜならそれには生物の遺伝子と似た性質がある。
それは、環境を変化させ、己に適応させる力だ。ビーバーのダム、鳥の巣、人間の家。全て自然環境を破壊し変形させた道具だ。道具は持つ者の体を変形させ、その道具に相応しい使い手に改造する。使い手はあたかもそれが当然であるかのように適応する、それが彼にとっての新しい環境、適応できねば死ぬ。
道具を手に入れたときに大切なことは、それを自分にふさわしい環境の一部として使うことだ。人間にとって分不相応な場所(たとえば月面や成層圏、深海など)で暮らすためにはさまざまな装備が必要であるように、自分が使いやすいようにカスタマイズすることで道具は初めて環境としての機能を開始する。
君が人間そのものを環境の一部に含め、改造を欲することのないよう望む。脳は簡単に信号を誤信するし、道具は人を変えてしまうからだ。おれのアカウントはscreammachine、繰り返すが上記のようなことはちっとも呟いていない。近所の空き地に花が咲いたとか、食べた刺身がうまかったとか。
 
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