絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

うまかった。

 打ち合わせに行ったら、新宿のタカノで買ったというイチゴをふるまわれた。一個約100円と言われ、一口食べるとその密度、味わい、香りにノックダウンされそうになったが、おいそれと食べられないのも貧乏くさいと思い「うまいですねこれ」などと言いながらばくばく食べた。それにしても俺は食に頓着がなくてこのようなときの語彙に困る、うまい、以外に気の利いた言葉が出てくればいいのだが、喉までやって来るのはどこかで読んだ「馥郁たる香り」だのといった陳腐極まりない上に意味のよくわからない言葉だけである。ふくいくって言葉に自分の名前が含まれていることすら今知ったぐらいだ。
 そういえば、先日知人の相談に乗ったところ「世話になった御礼に飯をおごりたい、何が好きか」と聞かれ、懊悩した。食べ物はたいがい好きである、嫌いな食べ物はふやけた肉まんと雑巾の香りがする丼飯と答えたら「それは食い物ではない」と断りを入れられるぐらいには、こと食い物に貴賎を感じない。ジャンクなものも高貴なものもみな平等にうまい。もちろん良い寿司と回転寿司の区別ぐらいはつくはずだが、かといって水っぽい回転寿司のエンガワがまずくて食べられないかといえばそれほどでもない。たとえばマクドナルドのハンバーガーを食べてまずいのうまいの言う者がいないように、食い物にはその食い物にふさわしい評価基準というものがある、だいたいの食べ物は腐っていなければうまいし、味がついていればうまい。というようなことを呟いていたら「お前に奢る飯はない」と言われたのであわてて謝った。上記の戯言は「安い飯」に関してのことだ、自らの境遇に不平を漏らすよりは安い飯をうまいうまいと食っていた方が幸せではないか、おれは良い飯だって食ったことがあるのだから良いものを食ったらやはりそれは安い物を食ったときよりも感動もひとしおなのではないかというようなことをほざくと先方が「手作りの鍋はどうだ」と言うので俺はなんだかほころんでしまった。
 結局貴賎も何も、作り手のことを考えた言葉ではなかった。ふるまわれた飯のその味はつまり、ふるまった者の味なのだ。おれは黙ってうなずき、喉を鳴らした。
今日の動画:鳥足二足歩行の練習。
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