絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

タイムトラベルの探究、あるいは光り輝く未来に接続するにあたって。

 僕は未来を想像する。百年後、十年後、明日。自分がいなくなったあとの世界を想像する。
 動物にとって「記憶」とは、進化の過程で手に入れたもっとも有効な生存の方法だ。記憶が脳に刻まれて、動物は次に起こる事柄を予測する。危険な目に遭えば「この道は危険だ」と予測し、その道をふたたびは通らないだろう。美味しい餌に出会えば「この先にも餌がある」と予測し、その先へ向かうかもしれない。だけど、自分と何かのつながりがなければ、動物は物事を予測できない。チンパンジーは想像しない、自分とは何のかかわりもない動物を、自分とは何のかかわりもない環境を、自分とは何のかかわりもない、百年後の未来を。
 何の根拠もなく未来を想像できるのは、人間だけだ。人間だけが、過去と一切つながりのない未来を想像することができる。自分のいない世界、自分とはかかわりのない世界、自分という要素の介在しない、すばらしき未来を。
 でも、そこに自分がいなければ、少しだけ、さびしい。人間は自分のいない世界を想像できるけど、自分がそこにいないと、さびしく感じる。だから人間は言葉を作った。物語を残した、自分がそこにいる証、生きていた残り香を誰の目にも見えるように形にした。
 シェイクスピアはいない、でも私たちは彼に会うことができる。近松門左衛門はいない、でも私たちは彼に会うことができる。
 あなたはもういない、でも僕は、あなたにいつでも会うことができる。ほんとうはもっと記憶を脳に刻みたかった、あなたを自分の一部にしたかった、でも贅沢は言わない、僕は怖くてあなたに近づけなかった、あなたの才能に嫉妬した、だから僕はあなたを文字で追う。無神論者が死者に手向けられる言葉は少ない、でもあなたも無神論者だった、だからわかってる、仕方ない、そういうものだ。
 さようなら。