絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

何をするのかしないのか。

 どうにも、自作を解説するのが好きで困る。第一にあまり格好よくない、第二に浮かれている、第三にみっともない、全部同じか。ひとによっては魔法が解けるなどと言うし、そもそも作品が世に出てないうちから自作について語るなどということは、誰の役にもたたないのだからしなくてもよろしい。黙ってろ、はい。
 では、作品が世に出てしまうとしたら、どうだろう。否応なしに世に出てしまう作品について、何か宣伝になることを言うてくださいよ、と頼まれたらどうしよう。格好つけて断るか?いやそれはできない、だって解説するのだーいすきだから。
 今度の舞台はかなり面白い。公演形態は決まっており、原作も脚本もある、という制約の中で不肖麻草郁が何をやるのか、やらないのか。さあさあ、出てくるのは六尺の大イタチかな?それとも蛇女かな?ワニ男と空気女もおまけに見せちゃおう(そういう舞台ではない)。
 といった逡巡もありつつ、公式ブログに載せた文章だけれども、ゲーム発売おめでとう記念で転載しちゃう。
初出>http://www.ikatan.jp/modules/blog/details.php?bid=83

「いかたん」舞台版とは何か?

 演劇にはたくさん種類がございましてな。たとえるなら中華料理、四川と北京では萌えアニメと燃えアニメほどにも違う。一方では正しいとされていることが、もう一方ではあり得ないほどの間違いであったりもするわけでございます。この文体面倒くさいんでやめますけど、今回の舞台がどんなテイストのものかを事前に解説しておこう、というのが本項の試みです。
 さて、突然ですがあなた映画見ますか。アニメでも実写でもかまいませんが、映画を見ていると当たり前に思っていることが、現実には絶対に起こりえないことだったりするでしょう。その最たるもんのひとつが「モンタージュ」という技法です。エイゼンシュタインという人が「戦艦ポチョムキン」という映画の中で実用化した映画技法。簡単に言うと映像Aと映像Bの間に映像Cを挟み込むとあら不思議、なんか隠されたメッセージが読み取れるような感じがするでしょう、って技法です。
 映画というのはそれが何であれ「いつか誰かの見た風景」という前提がありますからね、こうして何層にも仕掛けをほどこすことができる。ところが演劇というものは、いくら仕掛けをほどこしても見るのは観客なんですね、その出来事を作るのは演出家や役者かもしれない、でも、最後に見て判断を下すのは観客、つまりあなたなんです。
 じゃあ演じる側は何をすればいいのか、これはもうとにかくそこにあるものを見せるしかない。でも、何を見せてもそこにいるのは役者だし、立っているのは舞台の上なわけで、映画のように「カメラの前で起こった出来事を推測するしかない」ぐらいに観客をだますのは難しい。そこで「演じる」ということをやめてみる、といった手段が取られたりもしました。後ろ向きたかったら向く、ボソボソ喋りたかったら喋る。観客はその中から、言いたいことを読み取っていく、あるいは読みとらないことを選択する、というジャンルです。もちろん、今回の舞台はコメディですから、そういうものではない。そういうものではないけれども、ただ大きな声でわめいたり、役者の身体に頼ってばかりのものとも違う。
 言ってみれば、映画のようなモンタージュを「演技」や「役者同士の関係性」で見せていこう、といったものです。これは俳優にとってはものすごい負担となります。出ている間ずっと手品をしながら本気で芝居をしてくれ、といっているに等しい。
 でもやる、何でかというと、今回は映像が舞台の上方で流れるからです。演劇と映像は前述したとおりまったく違う表現形式ですから、普通は演出家の視点、あるいは劇中人物の視点を明示してから使います。ところが今回はまるで映画のシーンチェンジのように、映像が入り込んでくる。これは相当ハードルの高い挑戦です。
 さて、この挑戦は成功するのでしょうか?次は実際に稽古場でどんな試練が行なわれているのかを見てもらいましょう。また次回!
http://www.rams.jp/rat/

文学フリマに行ったのよ

 それでまあid:xxx1shot2kill氏を舞台の稽古などに呼んでブートキャンプしてもらいつつ、先日文学フリマに行きました。そこで「新進気鋭のマンガ評論家泉信行の新刊です!」などと叫んでいたら打ち上げに連れて行ってもらい、6時間ほどマンガの話をした。そしてかがみ氏(男爵ディーノ)と話をしていたらちょうど演劇の話が出たのでマックでお茶をしつつ上のような話を途中まで。あと吉田さんの新刊はほんと労作な上に今まで読んだ中で一番良いんじゃないかと思ったので宣伝しておきたい、関係ないけど