絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

聖なるかな、聖なるかな。

「目に見えるものだけがほんとうではない」と言って、おじいちゃんは死んだ。ぼくに遺されたのはイチゴ農園と、一台の車、そしてその言葉だけだった。戦争が終わってずいぶん経つから、兄さんが帰ってくれば農園は大丈夫だと思っていた。だからぼくは車に乗って町へ向かった。丘をこえて、長い道をいく、平坦な、どこまでも続く白い帯。兄さんが戦場から送ってくる手紙はだんだんと短くなっていった。ぼくは村に戻り、部屋でその手紙を焼いた。兄さんはいつまでも帰ってこなかった。だから結局、ぼくが農園を継いだ。
「読みづらいね」とルーが笑ったので、シーも微笑んだ。そう、読みづらい、ぼくもそう思う。いちご農園の刈り入れ時に町から手伝いにきたルーとシーはつながっていた。二人の教えてくれた方法で刈るといちごの量が増えたように思えた。
「エネルギー保存則には従っているから、絶対時間でいうと増えてはいないの、時間は可逆だからすぐに戻るよ」とルーは釘を刺した。
 予言どおり、昼過ぎにはいちごはいつもの量に戻った。ルーとシーは物知りだった、ぼくが知らないことを何でも知っていたし、ぼくの知りたいことを何でも教えてくれた。そして、ぼくがいつまでも同じことを考えて苦しんでいるのは、意思をなにかすばらしいものであるかのように勘違いしているからだ、とシーは教えてくれた。
「意思と欲望は同じもの」とシーは言った。
 ぼくがいちごの収穫量を気にするのをたとえに、シーはそれをわかりやすく説明してくれた。ぼくがいちごを育てるのは、いちごが採れたらそれが金に変わるからだ。でもただ金が欲しいのなら、ぼくは町で働けばいい。そうしないことに意思が働いていると、ぼくは思っているとシーは指摘した。そうだ、ぼくはおじいちゃんが遺してくれた農場を守らなきゃいけないと思っているし、兄さんが帰ってきたときに農場がなくなっていたら悲しいだろうとも想像した。
 でもそれは欲望なのだ。ある欲望Aを満たすために、ほかの欲望Bを犠牲にするとき、その欲望Aを満たすための動きが意思と呼ばれる。意思と欲望は対立する二つの何かではなくて、同じものを違う距離で眺めたときに見える大きさの違いなのだ。
「遠くにあるイチゴは、小さく見えるでしょう、でも近づくと大きく見える。そして、そのイチゴは、手の届く距離になれば、価値が出てくるけど、遠くにあるときはただのイチゴ」
 近くのイチゴが欲望で、遠くのイチゴが意思だ。
「でもそれじゃ、信仰はどうなるの、神様を信じるのは意思の力だろ」
エウロパよりも遠くにあるものは、きっといつまでも意思であり続けると思うよ」
 兄さんは戦場に行った。農園から続く長い道を歩き、平坦な、どこまでも続く白い帯を抜けて、いつまでも兄さんは帰ってこなかった。
 夜になり、ルーとシーが眠ると、ぼくは農園を出るためにエアロックへ向かった。
 神様は二千年前にこの世界をおつくりになった。
 はじめは、霧だけがあった。神様はまず、空に雷の種を捲き、それから火を放って霧を追い払った。それがいくつも輝く太陽になり、残りはガスとなって大地に漂った。ガスからはたくさんの生き物が生まれたが、神様はその中から一番神様に似ているぼくたちに知恵をお授けになった。やがてぼくたちは村を作り、町を作り、空を目指した。神様のいるところまで行こうとしたのだ。
 地平線から垂直に、白い帯がどこまでものびている。でも神様はいなかった、白い帯がエウロパに届いたとき、戦争が起こった。
 神様を信じるものと、信じないものの間で、長い戦いが続いた。兄さんは帰ってこなかった。
 翌朝、ルーとシーは大きな翼をひろげて旅立った。ぼくは教えてもらった方法で手紙を書いた。電極をつないでとばすと、ルーとシーに届いたのがわかった。また春に、また春に、こだまのようにぼくのまわりで返事がただよった。また春になれば会える、それは欲望だろうか、それとも会いたいという意思だろうか、ぼくは手紙を書いた、たくさんの手紙を書いた、エウロパに届けばいいのに。すると、どこからか返事が流れついた。それは誰が書いたのか、いつ書かれたのかもわからなかった。ぼくはルーのことばを思い出した。時間は可逆。
 希望。欲望は意思。エウロパよりも遠くにあるものは、きっといつまでも。