絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

顔色の悪い神様が、新しいのをくれと君に言うだろう。

 今日、おれはひどいことを言われた。そのことを思い出すだけで、全身の毛穴が開きそうになる。もちろん仕事があるから充電が終わるそのときまでのことだ。この場合「仕事」と「充電」の間に何のつながりがあるのかを考えるのが作家、疑問に思うのが批評家、意味がわかんねえとふてくされるのがお客様。お客様は神様とも言うが、神様ははたしてお客様か問題、というのがある。今考えた。つまり根本敬の言う「神はいる、ただしカタギでではない」的な問題として、おれは神様というのはどうにもお客様であることだなあ、と思うわけである。
 はじまりはこうだ。天から啓示が降ってきた。
「だってお前、意味のないこと一日一万文字書けって言われたら書けるだろ?」
 バイトに行く少し前だから、昼の十二時ごろである。上を見ると青空に太陽。太陽には雲がかかっていて、雲の隙間から梯子がおりてきていた。
「一万字は難しいかな、ていうかお前誰?」
 さすがに口に出すのははばかられたので、心に問いかけた。まさに全日本自分の胸に聞いてみる党の集会さながらに、おれは読んでいた本をパタリと閉じて、立ち止まったまま目をつぶったのだ。すると声はつづけた。
自己啓発本を書けよ、そんで一発!儲けようぜ!な!」
 ちっとも神聖なところのないその声は、下卑た調子でささやいた。実は昨晩、静かなる狂人の地味な襲撃を受けたおれは、とにかく頭の悪いやつと気の狂ったやつの話を聞くことに疲れていたので、ああとうとうおれの頭もバカになった上に狂ったか、と嘆き悲しんだ。それはもうたいそうな様子で嘆いたし、その墓に花の絶えることはなかったと後世に伝えられる程度には悲しんだ。
 昨晩の狂人というのは知り合いの自称物書きで、実はある本を書いて一発ドカンと売れてしまった知人と共通の友人なのだが、これが知人が売れたものだから自分も売れるものと勘違いしたあげくつぶれていった典型のようなやつだった。仕事がなくなったのは、酒を飲んでは暴れるからだ、と当人は思っているが、実は書くものがつまらないから仕事がなくなっただけで、もちろんそれを知らないのは当人だけなのである。
 それで、締切を守らないから仕事のなくなったおれ(もちろん編集者から見れば、締切を破られてまでほしい原稿ではないものを書くおれという人間)の家に夜中に来ては、一緒に儲けようだの一発当てようだのと言ってくるのだ。おれはこいつを見ていると水木しげるのインタビューに出てきた「500円を持ってこれが明日には倍になりあさってにはその倍と言いながら常に500円を持っている男」のことを思い出すのでとても嫌だった。そうだ、水木さんは「その男はいま何をやっているんですかねえ」と聞かれて「餓死でしょう!」と言ったのだった。
 それがとうとう追い詰められて、昨晩は正義の襲撃計画について滔々と説明されたのだった。そう、説明。そいつの話はテレビ業界のからくりから芸能界にまつわる陰謀まで非常に狭い範囲で世界の仕組みを説いて明かす大演説だった。おれはそのあまりの退屈ぶりに全身の筋肉から「生きる」という気持ちを抜き取られたような気持ちがした。
 やつは、おれの出したお茶をゴックンゴックン飲みながら、つじつまの合わない話を繰り返した。「おれたちは正義だ」「間違っているのは世の中だ」「おれは売られた喧嘩は買うし負けたことがない」「あいつとこいつとそいつにはお灸を据えなきゃならない」「暴力は良くないんだ」「正義のためには仕方ないんだ」「こうすればあいつらも反省する」「おれは昔っからいじめられていて」「暴力は捨てたんだ」「子供のころからあいつらみたいなやつが」「だからこれは正義の戦いで」「おれは」「あいつらを」「おれは」
 突然、ふところから包丁を取り出し、やつはおれの首筋めがけて包丁を振った。
「どう?これで脅かしたらあいつら土下座して謝るだろ」包丁はおれの首、数センチ手前で止まった。
 おれは泣いた。確かにこいつは馬鹿だし、どうしようもないやつだった。だけど話している相手に包丁を向けて笑うようなやつじゃなかった。悲しかった、狂うってのはそういうことか、何もわからなくなってしまうのか。こいつの脳が燃え尽きていくのを、見ているしかない自分にも嫌気がさした。こいつがおかしくなるのを放っておいた連中に腹がたった。こいつは、こんなやつじゃなかったはずなのに。
 いや、そうだろうか。本当は、昔からこういうやつだったんじゃないだろうか。狂気はその人間の本性をあらわにする、という考え方だってある。まともに考えられるころには「我慢」していたことを、狂ったことで我慢しなくなっただけなのかもしれない。こいつは確かに昔から、飲むと暴れるし、自転車を蹴るし、自分が強いってことをまわりに言いふらさなきゃ生きていけないようなやつだった。そうか、おれが現実から目をそらしてていただけなのか。だからきっと、昔からこうして必死で自分を守っていたんだろう。おれはきっと「すごいね」「強いね」「あいつら反省するね」と相槌を打ってやらなきゃいけなかったんだ。
 でもそれはできなかった。それでもやっぱりこいつは友達だったから、それが病気のせいだか何だか知らないが、ダメだ、危ない、気をつけろと言うしかなかった。そして業を煮やしたやつは、包丁を取り出して大丈夫だ心配するなとおれに言った。そう、心配しないでくれ、おれは強いから、と言ったのだ。だがおれは涙を流した。理由は二つある、ひとつは同情、もうひとつは落胆だ。
 おれは泣きながら、言った。
「おれは昔、親父に包丁を向けられて一緒に死のうと言われたことがある。お前も、お前の言う敵も、おれから見たら一緒だよ。だから、もうお前の話は聞けない、帰ってくれ」
 土下座をされた。やつはごめんなさい許してくださいと謝った。おれは何も答えなかった。これで長かった話も終わる。おれはやつの肩を出いて、荷物を渡し、包丁を鞄にいれてやると、ドアの外に押し出した。大通りに面したおれのアパートからは、駅に向かって連なるタクシーの群れが見えた。おれは財布の中から二千円を取り出し、千円を戻すとやつに渡した。
「もう怒ってないよ、許す、だから今日は気をつけて帰れよ」
「許してくれるんだ!やっぱりお前は友達だよ!おれはお前に何をされても怒らないよ!だって友達だもんな!」
「ああ、そうだね、ほら、タクシーが来たよ」
 千円では帰れないかもしれない。知ったことか、正義の襲撃作戦の前に無賃乗車で捕まってくれればその方が誰も傷つかなくていい。もしかしたらタクシーの運転手に包丁を向けるか? いや、そうはしないだろう、今思えば相手がおれだから、あいつは包丁を向けたのだ。ある意味ではその行為は正しかった、今はもう、おれはあいつの敵だから。
 やつがタクシーに乗るのを見送って、おれは部屋に戻った。イライラは頂点に達していた。どうしてやつがあそこまで追いつめられたのか、その原因はどうでもいい、だいたい誰でも思いつくことだし、脳の配線がどうにかなったことに対しておれが何を言えるわけでもない。ただおれはこの生活、つまり二千円くれてやることもできたのに、明日バイト先に行って昼飯を食うための千円を残さなきゃいけないと思ってしまうような生活を抜けださなきゃならないと思っただけだ。
 そして、今日の昼だ。声は頭の中から聞こえるようでもあり、そこらへんの路地裏から聞こえるようでもあった。なんにせよ、まったく上品なところのない、詐欺師じみた軽快なしゃべりで、声はおれに自己啓発本を書くようにと勧めるのだった。
「毎日一万字書くわけさ、そんで、その中から私が売れそうな文章を選ぶ、ほら、そうすれば」
 おれは話を聞きながら、駅に向かって歩みを進めていた。オーケイ、おれは狂った、それは認めよう。だが狂って幻聴が聞こえるとして、その声がポジティブなものだった場合、おれはどうすればいいんだろうか。幻聴ってのはもっとこう、ロマンチックに世界の崩壊を望んだりするもんじゃないのか?次第に狂っていく世界のルールに対してその体をゆだねて、しかし心は抗いながらやがで死を迎えたりするもんじゃないのか?あるいは夕陽に染まる高速道路を素足で歩くような感じ。そうだ「ファイトクラブ」のラストちょっと前を思い出せよ、タイラーダーデンの詩の暗唱、かっこよかったろ? それがなんだ、おれの狂気は言うにことかいて「儲けよう」だと? 下品で下劣で情けない、これがおれの本性かと思うだけでみぞおちがキュッとする。
 ふたたびおれは、頭の中で問いかけた。
「お前、誰なんだ?何でおれが毎日一万字書かなきゃならない?」
 声は、ゆっくりと、噛んで含めるように、やさしくささやいた。
「私は神様だよ。気に入らないなら宇宙人でも天使でも守護霊でもいいが、とにかくお前、昨日助けを求めただろ、だから助けてやるって言ってんだよ。いいか、こんなチャンス滅多にないぞ、本物の神様がアドバイスをしてくれるんだぞ、お前だーけーのーためーにーぃ?」
 きっとおれはそのとき、とんでもなく変な顔をしていたのだろう。電車を待っている人の列が、いつの間にかおれをすり抜けるように並んでいた。神様が、おれだけのために、アドバイスをくれる。
 余計な御世話だ。しかもなんだ、毎日一万文字書けって?アドバイスってもっと身近な生活から変えていくとかそういうことだろう。
ライフハックか、バカバカしい、あんなのクソだ……そういやお前おととしなんかの本読んで、その中の言葉を紙に書いて壁に貼ってたな、なんだっけ?リンカーンならどうする?だっけ?あれなんかの役に立ったのか?それに自己催眠にも凝ってたな、鏡を見てなんだ、お前はできるとか何とか、あはははははは」
 頭の中いっぱいに笑い声が響き、おれの顔が熱くほてるのがわかった。目の中まで血がめぐって怒りで涙がにじんだ。頭がおかしくなる時ってのは、こんな風に自分を追いつめてしまうものなのか?もっと逆に、自分勝手に生きるための妄想と幻覚が手に手をとって夢のような世界へ連れて行ってくれる(そして現実には病院か刑務所へ連れて行ってくれる)もんじゃないのか。それがなんだ、こんな地味な方法で、おれの脳は何がしたいんだ?それともおれはまとも原稿が書けないだけじゃなく、まともな友情が育てられないだけじゃなく、まともな恋愛ができないだけじゃなく、まともに狂うこともできないっていうのか?まともに狂うって何だ?昨日のあいつみたいにステレオタイプな妄想話を夜中に突然友達の家に言ってしゃべり続けることなのか?おれはそんなことがしたいのか?
「一日一万文字だよ、簡単だろ?ブロ…グとかいうのやってたじゃないか、お前」
「あれはせいぜい三千文字だよ、ふくらませて六千文字、一万字って結構大変なんだよ」
 電車の中でも会話は続いた。頭の片隅でおれは「電波とはいえ、やはり地下でも通じるものなのだな」と当り前のことをふしぎに思った。何が電波だ、馬鹿め。電車は新宿を過ぎて御苑に向かう。バイト中もずっとこいつは話し続けるのだろうか。それなら逆に退屈がまぎれていいかもしれない。ただ気をつけなきゃならないのは、こいつへの返事を口に出してしまうことだ。おれはバイト先では無口で真面目で通っている、それが無口でキチガイになってしまっては給料にひびくだろう。ただでさえ時給を減らされて大変なのだ。何とか話し合いの上で交通費は出ることになったのだが、一日往復三百二十円ではたかが知れている。
「バイトなんかやめちまえ、くだらないですよ。それより一発当ててですね、楽な生活をしようじゃないか、きみ、ね。一回三千文字なら一日三回書けばいい、どうだ」
 なんか喋り方が一定じゃないのが気味悪い。狂っているのはおれじゃなくて、おれの中の神様なんじゃないだろうか。ああ、なんだか思い出してきたぞ、最近本屋で見たんだ、自己啓発本で、神様が出てくるやつ。
「ああ、あれを見たのか、あれすごいよな、一億稼ぐって目標に向けて何でもやるって気概にあふれているよな、うん、あれはすごい。だからな、あれをやるんだよ」
「誰が?」
「お前が。毎日一万字書いて、話はそれからだ」
 電車が御苑に着いた。おれはぐったりしながら、どう説明すれば「毎日一万字」が無茶な目標だってことをわかってもらえるかを考えた。たとえば四文字書くのに「yo-nn-mo-zi-変換」で三秒かかったとする。一万割る四で二千五百秒。二千五百を六十で割ると四十一.六六六六……いかん、四十一分で書けるじゃないかとでも言い出しそうだ。違うんだ、文字を打つってのと、文章を書くってことは、根本的に違うんだ。サルに偶然シェイクスピアを書かせるには何千万台のタイプライターが必要なんだっけ?
「お前はサルじゃないし、選ぶのは私なんだから、とにかく思いついたことを書けばいいんだよ、な」
 簡単に言ってくれる。
「思いつくことなんて何もないよ。だいたい、自己啓発には興味がない、もう一切そういうのはやめたんだ。おれは毎日バイトをして、金をためて、普通に生活する。余計な夢は見ない。才能がないし、努力するのも無理なんだ、人づきあいだって苦手だし、請求書書くのも面倒くさい」
「じゃあ日雇いでいいじゃないか、何でこんな業界の隅っこみたいなところで、毎日ポチポチ入力してるんだ?月締めだとキツイんだろ?今月もまだ半ばだってのに携帯の料金も払えてない。お前はまだ夢の中にいるんだよ、さめたフリしても無理さ、才能がない?才能をためすほど何かを書いたことがあるのかよ、どうせぬるま湯につかって、安全圏でグズグズしていただけじゃないか。誰かに手ひどくしかられるようなことをやったおぼえがあるのか?
「そんなことない、新人賞にだって出した、落選したよ」
「三日で書いた小説を出したって言えるのか?なあ、どうして締め切りを守らない?どうしてギリギリにならないと手をつけない?なぜだ?わかるか?……怖いんだろ、勝負の場で評価を受けるのが、大きな舞台で失敗して、その「才能のなさ」ってやつを突きつけられるのが怖いんだ、だからブログで適当に書いて、放っておいたんだ、そうだろう?」
 三千文字、それがおれの限界だった。勢いで書ける文字数。勢いで読める文字数。ふと思うことがある。狂ってしまったあいつは、やたらと小難しい本を読んでいた。でもそれについてあいつの言葉で説明させると、とたんに言葉が濁ってしゃべれなくなった。おれもそうだ。頭のいいやつの書いた頭の良さそうな本を読むと、頭がすらすらと良くなった気がして気持ち良かった。自分の書く文章は、それにくらべてとんでもなく読みづらかった。理由はわかっていた。おれたちは頭があまり良くない。だから、文章を長く書くことができないんだ。もって六千文字、元気に書けるのは、三千文字。一日に三回も書けば、その果てが知れる。だから書かない、手堅くまとめる、ブログで十分、いや、ブログだって続けて書けやしない。目の前にあることや、目の前にあるもののことを書くのすら苦痛になっていった。やがて生活の幅がせばまって、他人にも会わなくなって、おれは書くことがなくなった。
「……ブログだってもうやってない、おれは、もう、あきらめたんだ」
 バイト先のあるビルが、目の前にあった。二階の編プロでおれはビデオの編集をしている。雑誌付録のDVDを編集して、雑誌基準のモザイクをかける仕事だ。毎日毎日一時間のAVを五分や三分にちぢめて、大きなモザイクをかける。それだけだ、ただそれだけがおれの仕事だ。本当は社員になって、ほかの仕事をしながらもっと給料をもらうこともできた。だがおれは断った、何も考えたくなかったし、何か特別な役割を与えられるもの嫌だったからだ。おれは工場の部品のように、ただ黙々とモザイクをかけた。職場にはホワイトボードがある、そこにはバイトや社員の名前が書かれている。おれの名前はない、おれは部品だから。
 大きな仕事があった。去年の暮れに、魚みたいな目をしたプロデューサーから、金にはならないが将来につながる大きな仕事だと言われた。三つあるうちの二つを落とした。そしてその仕事は別の人間の手に渡った、魚の目はくるくると回って、おれは二度と使ってもらえないらしかった。「賠償金」などという言葉も出たが、その意味はわからなかった。とにかくおれは失敗して、そして職を失った。
「何ひたってんだよ、金玉ぶらぶらさせてるくせに」と神様が笑った。
 神様、ああ、もういいよ、そういうことにしてやろう、神様。
「自分で選択したんだから自己責任だ、とか言うんだろう?このナナロク世代が、おほほほほ」
 確かにおれは一九七六年生まれだが、このナナロク世代という言い方には本当に腹がたった。何が世代だ、そんなものは占いと一緒で、歴史としては事実かもしれないが、結局は個人差の範疇だというのに。ああ、嫌なことをまた思い出した。おれが十七のころだ、趣味でミニコミを書いたりしていたが、自分が何になりたいのか何て考えてもいなかった。それを読んだある作曲家が、おれが二十六のときにこう言った。「きみが十七才の時にデビューしていたらねえ、すごかったのに、十七であれが書けたんだから、すごいよねえ、でも今じゃ二十六だから、普通だねえ」
「おはようござい…」と消え入る「ます」を引き連れながらおれはドアを開けた。据えた汗のにおい、もうもうと煙草のケムリ、ここだけまるで八〇年代のままだ。エアコンがヴィーヴィー悲鳴をあげている、むっとする熱気と乾燥した空気。デスクに座り、チーフに声をかける。ボソボソと今日科せられるノルマと、その仕上げ時間について打ち合わせ、おれの一日が始まる。
 なぜおれが十七のときに、その作曲家がおれに「デビューしろ」と言わなかったのか。おれが二十六になったときに「もう遅い」とわざわざ言いにきたのかは、わかっているが、わかりたくもない。とにかくおれはもう遅く、それからずっと遅いままだ。
 編集ソフトの中で女があえいでいる。声と声の隙間を探して、ハサミを入れる。連発モノの編集は、女が息をつぐ間の数フレームが勝負どころだ。とにかく読者は抜ける場面だけを欲しているが、雑誌の倫理規定はカラミの秒数を厳密に制限している。せっかくの抜きどころにベッドのきしみや男優のあえぎ声が入れば台無しだ。用意されたティッシュのために、長い夜を連発モノで過ごすお前のために、おれは何度も巻き戻し早送り、最適な場面を探し出してダイジェストを作るのだ。
「自己責任だし個人差だ。とにかく一万文字書くのは大変なんだよ、何時間もかけてられないんだ、バイトは夜中まであるし。だいたいブログなんてものは『タダで文章が読みたい』っていう連中がよってたかって盛り上げてるけどね、あれは演劇やりたいって連中が持ち回りでチケットノルマ消化しているようなもんだから意味がないんだよ、そんなところに書くぐらいならチラシの裏にでも書いた方がマシだね」神様は答えなかった。もしかしたら消えたのか?と安心すると、神様は言った。
「あっ、そこで切るの?そこで切っちゃうの?」
 おれは、おれの目を通してAVを見ている神様のその凡俗ぶりに呆れ、怒る気をなくした。
「ああ、ここで切るよ、だってこの雑誌は射精を載せられないからね。ほかにもいろいろ決まりごとがある、この雑誌はセーラー服禁止、逆にこのメーカーは全部使えって言ってくるけど、何しろ一本一分ってときもあるだろ、全部入れるとがちゃがちゃしちゃうから、こうしてカラミの一シーンだけを入れたりするんだ……わかったろ、これはこれで結構忙しい仕事なんだよ、このあと雑誌用のモザイク入れなきゃならないし。だから一日一万文字なんて書いてるヒマないんだよ」
「自分から、その話に戻したね、私は何も言ってないのに」
 声だけで得意げというのは伝わるものだろうか?おれは先日知人の声優がやった仕事を思い出した。それはアニメの声優の声を真似て、携帯電話の着信音にして配信するというものだった。はじめに聞いたときは「歌ってるのは、誰だか知らないやつ」というあの歌の歌詞を思い出したが、聞いてみるとこれがなかなか、特にグレンラガンのシモンなど、本物のようだった。ただ、聞いて思ったのは、元のアニメがないときに、この声はどう聞こえるのだろうか、ということだった。知人が言うには、参加した全員が、自分の声ほど、本物とは似ていないように聞こえたらしい。だが、知人の録音したムスカのモノマネは、確かにそっくりではないが、何かこう、本物を思わせる特徴にあふれていた。
 それが、得意げな声、というやつだ。ムスカ大佐の得意げさは、その顔や動きではなく、声にあるのだとそのとき気づいたのだ。長い前置きだったが、神様の言葉は、もうその得意げにあふれてあふれてしかたないほどだった。そう、おれは確かに自分から一万文字の話をぶり返した。わかってる、興味があるのは自分が一番わかっている。
「……本当に一日一万文字書いたら、儲かるのか?」
 儲かることに興味があるのか、それとも一万文字か、できれば文字数であってほしかった。だが金もほしい、それは事実だ。どうせ幻覚の言うことなのだから、素直に聞けばいいのにと思うのが素人の浅はかさ、頭の中で喋る誰かの言うことを素直に聞くことができるのは、よほど頭のおかしいやつだけだ。と経験者は語る。
 神様は答えずに、おれの脳をひっかきまわした。目の前がチカチカとまたたき、画面の中の女がこっちを見て微笑む。目に来る幻覚は大好きだが、仕事中に来られても困る。女の口が動き始めて、おれは椅子に座ったまま爪先立った。キーボードが波うち、つられて波の音が聞こえてきた。「と、トイレ行ってきます」おれは立ち上がりトイレに駆け込んだ。そうだ、おれは頭が狂っているのだった。いつからだ?
 やはり昨晩のことが原因だろうか。医学的にも間違っていることはわかっているが、狂気が伝染するとすれば、それは風邪のように弱った肉体にとりついて症状を示すに違いない。洗面台に向かい、蛇口をひねると水がばしゃばしゃと出てくる、ここまでは本当だ、水を両手ですくい、顔を洗う、つめたい、ああ、本当だ本当だ、鏡を見ると瞳孔が開いている。顔の上にある蛍光灯を見る、まぶしい、本当だ。
 ひどい顔色だ、緑と黄色と、白。むくんでいるのに、ほほ骨のあたりは骨が透けたみたいに角ばって白い。不精鬚が無残にねじくれて生えている、なんと汚い顔だろう。笑うと黄色い歯が見えた。
 トイレのドアを開けて誰かが入ってくる、目をふせてハンドペーパーを取り、トイレから出ようとすると、その誰かが言った。
「フラッシュバックですかぁ?あぶないなあ、もう」
 黄色い頭のイマシロさんだった。
 デザイナーのイマシロさんは、本物のジャンキーで、いつも瞳孔が開いているか、眠そうかのどちらかだった。仕事の前にも何かを入れているらしく、妙にハイなときもあれば、何を言っているのかわからないときもあった。自宅でパーティーをするからと言っては何度も誘われたが、体調不良を理由に断っていたら誘われなくなった。それでも顔を合わせると、人懐っこい笑顔で、手を何かの形に動かして「仲間である」と示すのだった。そう、おれはイマシロさんから一方的にジャンキーであるときめつけられていた。
 そういうものに興味がないわけでもなかったが、二十代前半でそういうのはやめてしまっていた。別に卒業したとかそういうことではなく、単に金が続かなくなっただけだ。それでも世の中には犯罪を犯してでもそういうものを続けるひとがいるというし、おれはそもそもそういうものへの耐性があったんだろう。煙草も酒も、飲むときは飲むが、飲まなくてもやっていける。あらゆるものがおれの上をなめらかに通り過ぎて、おれはいつも終わったあとの疲ればかりおぼえていた。
 それでも彼は、おれを仲間だと思って疑わず、おれが何かぼーっとしていると、わかるわかるというふうにその黄色い頭をゆらすのだった。おれはあいまいに微笑んで答えた。
「ええ、まあ、あはは」
 おれの答えが気に入ったのか、イマシロさんはニッと笑って便所へ入って行った。ドアの向こうから、ライターで何かをあぶる音が聞こえた。
 席に戻り、作業を再開する。幻覚はおさまっていた。
「お前、あいつの名前はおぼえているんだな」と神様が言った。おれは何を言っているのかがわからず、は?と口に出して言ってしまい、あわててあたりを見回した。誰も気づいていなかった。
「何の話だ?」シャツの脇に、汗がじっとりと滲んだ。暖房が効き過ぎてる。
「お前は、あいつの名前だけはおぼえているんだよ、イマシロさん、だろ?」
「いや、別に、イマシロさんだけじゃなくて……」
 頭が端から崩れていくような感覚だった。名前、名前、名前が思い出せない。
「昨晩来たお前の友達、二十六才のお前に十七才のお前について話した作曲家、チーフ、お前の親父、ずっと話してて思ったけどな、お前、みーんな、名前忘れてるぞ」
 ノドがカリカリに乾いていた。狂うどころの話じゃない、幻覚がおれにアドバイスをくれている。この状況っていったい何だ?名前が思い出せないんじゃない、思い出せないってことすら思い浮かばなかった。おお、神様お助け、名前が思い出せない、誰も、誰が、誰なのか。
 おれは、誰だ。
 自分の名前が、思い出せなかった。

つづく。
http://d.hatena.ne.jp/./screammachine/20080313#p1