絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

書けないのではない、書かないのだ。

なんてことだ、悩んでいた案件がスッキリと解決したのです。

 まだ公開できる話ではないので曖昧だが、いま、こんな話を書いている。
 主人公はよるべなき孤独な男である。あるとき彼は死ぬのに失敗して、似たような者たちが集う場を救う。その場の者たちは、主人公の軽みに助けられ、まあなんというか、相互依存のような関係を作って、希望があふれて、もう死亡フラグが立ちまくる。そして、その場は歴史的必然として、外部の力で崩壊させられ、力を持たない主人公はまた一人になる。しょんぼりする。
 この話が、プロットだと面白いのだが、物語にすると、どうにもいやらしい。なぜなら世界が主人公に優しすぎるからである。もちろん表現としてはひどい目に遭うのだが、どうせ死にたいやつなので、結果的にはお前、都合が良すぎるだろう、というわけだ。自分で書いておいてなんだが、ちょっと甘すぎるんじゃないのこれ。そこで筆が止まっていたのだが、今日、少しだけ霧が晴れた。
 この記事を読んだのである(http://d.hatena.ne.jp/./otokinoki/20080307から)。

赤ちゃんが自立していないと言われるのは、母親がひとりいなくなるだけでたちまちその生存が危うくなるからである。
「オレは自立しているぜ」などといくら力んで宣言してもダメである。
自立というのはマインドセットの問題ではなく、現にどのように他者とわかちがたく共生しているかの問題だからである。
一人では生きられないので死んで貰います (内田樹の研究室)

視点の変化などと言うと安っぽいけれど、この記事を読んで、主人公に対するおれの評価が180度変わったのである。

自立者は三条件のうち二つを失った段階で「自立できなくなって倒れる」ということである。
「倒れる」というのは「不安定な状態が一気に安定した状態に回帰すること」であり、同じことをケミカルに表現すれば「爆発」するということである。
なるほど

 いやほんと、なるほどエントロピーはもりもり増大する。

ひとりで考えていると、眠くなる。

 結局書くものは同じなんだが、自分の目線がちょっと変わるだけで「あらお前、面白いじゃないの」となるのが情けない。あいや、情けない、と思っていた。つまりこういうのを自分の力でエイヤと持っていけるのが、大人だしえらいしかっこいいぜと思っていたわけだ。ところが振り返ってみれば、ちゃんとした大人は、まわりと共存しているのである(できてないひとも、もちろんいるが、そういうひとはちゃんとしていない)。
 そうすると、今まで「大人が描けない」と思い込んでいたものが、むしろその悩みこそ「子供の視点」じゃなきゃ生まれないものだった、ってことがわかる。そして「いい年した大人同士が子供みたいに戦う話」を好きなのにも、合点がいく。爆発が見たいのだ、心も体もはじけたいのである。性的な意味ではない。バーン、ドーン、ビシャー、しぬ。