絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ミスター・トッドは自動機械に乗って。

 映画『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』の何がすばらしいか、という話。あるいはミュージカルはこわい、という話。ネタバレなので、観たひとに読んでほしいですが、おれと同じように「全部知っていても映画は面白いよ派」のひとは、是非読んでから劇場へ。

ナイス、ナイスアイディア♪と彼は歌った。

 ずいぶん前に呑みに行ったとき、何でか知らないが、某三島賞作家に「きみは俳優なのか、ではミュージカルを描くので出演したまえ、君は姉歯の役だ」と言われたのを思い出した。姉歯二級建築士、おぼえているだろうか、構造計算書の偽造で話題になった彼である。眠っていたサタニストが起き出し、彼の奏でる勝手な即興曲で、おれたちは歌い出した。

苦悩する姉歯の頭に、ひとつのアイディアがひらめく。
姉歯「そうだ!鉄筋を抜けばいい!鉄筋を抜けばいいんだ!」
妻「ナイスアイディア!」
♪ナイス、ナイスアイディア、これで施工費用も減らせる♪

 このときおれの念頭にあったのは、スウィーニー・トッドであったように思う。
 狂気は理性に宿る。前提から間違っている正常な思考こそ、もっとも恐ろしく、滑稽な悪夢を生み出すのだ。

カミソリがきらーん!椅子がばたーん!死体がどーん!

 ふつう、スウィーニー・トッドと言われて思いつくのは、79年に作られたミュージカル版だ。今回の映画もそれを基準に作られていて、おれはたいそう劇場で喜んだ。なぜ喜ぶか、トッドの運命を描くのに、ミュージカル以上の表現方法はないと思うからだ。
 歌のおそろしいところは、途中でやめられない、ということだ。そのおそろしさに、ひとは歌を聴くのだし、歌うのだ。ウソだと思ったひとは、ためしに歌ってみたまえ、そして歌の途中で突然黙り込んでみたまえ。ほら、止められないだろう、頭の中で鳴り響くメロディを、伴奏の記憶を、別の音に頼らずに消せるものか。
 トッドは復讐のためにロンドンへ帰って来たという。だが待っていたのは復讐を先送りにする面倒な出来事ばかりだ。トッドに惚れているミートパイ屋の女主人が夢想する海辺での生活は、そのままロンドンで無感動に殺しを続けるトッドの生活そのままではないか。同じ歌がループする、また同じ場面だ。物語が進み、それぞれの登場人物の思いが変化しても、トッドは変わらない。一歩も理髪店の外に出ないまま、そのときが来るのを待っている。トッドのカミソリは十五年前と同じように輝いている。トッドの鏡は割れたままだ。そしてやっとのことで思いを遂げたトッドは、残りの全てをえらく短い時間でやっつける。映画全体にくらべて、クライマックスのスピードはなにごとだろう。そして無感動に映画は終わる。悲しみも、憎しみも、怒りも、何にも意味がない。トッドの人生は、無垢であるが故に妻を奪われたあのときに、すっかり終わっていたのだ。

ミュージカルは回る、レコードの針もいつかは止まる。

 いやあ、これを真面目にやられたら、ちょっと観てられない。荒唐無稽でバカみたいな暗い色彩のおもちゃじみた映画だから、最後まで観ていられたのだとおれは思う。だって登場人物の心象によってメイクが変わるんだぜ、楽しいときは頬がピンクに染まり、暗い気持ちのときは目の周りが黒く染まるんだ。そりゃ歌うさ、そんな世界で歌わずにいられようか。
 結論を言うと、この映画はかなり笑える良質なミュージカルコメディだ。そして優れたコメディがいつでもそうであるように、笑いながらおれは足場のグラつきに笑顔を凍らせる。狂人は理由を探さない、探すのはいつだって凡人だ。そして凡人たるおれは、こうして理由を探し続けて死ぬことができない。罪の名は愚か、やがて椅子が倒れ、かみそりは宙を舞い……