絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

努力する者は希望を語り、怠ける者はただ空を見る。

 世界には四つの人間がいるんだ。生きる奴、死ぬ奴、殺される奴、そして、殺す奴。
 こうやって、後部座席から重くなった死体を引きずり出してると、おれは自分がつねに、殺す側であればいいと思うんだ。
 たとえば学校で銃を撃つ奴がいるだろう、あいつらはみんな、最後に自分で頭を撃ち抜いて終わる。つまり、死ぬ奴だ。死ぬ奴にもいろいろいるが、山に登って一人でそっと死ぬ奴も、周りを巻き込んで大騒ぎのあとで死ぬ奴も、どいつもこいつも死ぬことばかり考えていやがる。おれは、死ぬ奴じゃない、少なくとも自分で死のうとは思わない。
 そうだな、じじいやばばあの孤独死や、貧乏で餓死するってのは、殺される奴に含まれるだろうな。こいつ、頭の真ん中に穴開けて笑ってるこいつも、そういう殺される奴の一人だ。お前は知らないかもしれないが、こいつは荒くれで、賭場を三つぐらい潰したところで、上に目をつけられた。お前と違って、死ぬ寸前になっても、笑ってた。死ぬ覚悟ができているのと、死にたがりは違う。殺される奴は絶対に死にたがりじゃあない。おれの住んでいるアパートでは先月、下の階でじじいが一人死んだ。貧乏で、狂ってて、バカだった。おれは暇だったので大家に頼まれて、じじいの荷物を捨てるのを手伝った。
 じじいの荷物を見ていると、じじいが貧乏で狂っていてバカだったということが、よくわかった。じじいをよくあらわす出来事がある。引っ越したばかりのとき、ゴミ捨て場にゴミを広げて燃えるゴミと燃えないゴミを分類しているのを見たことがある。その隣でぼうぼうと本が燃えていた。シュールな光景だった。
 一部始終を見ていた隣の主婦が言うには、まずじじいがゴミを捨てに来た。ゴミ捨て場にゴミを置くと、じじいは小脇に抱えた本を読み出した。どうしてゴミ捨て場で本を読まなきゃならないのかがわからないが、とにかくじじいは小脇に抱えた本を読み始めたんだ。そして、一読すると本を閉じて、ポケットからタバコを出し、火をつけた。すると隣の一軒家からばばあが出てきて「ゴミの分類ができていない」と怒り始めたんだそうだ。「いつもいつもっていうけど別にいつも間違えてるわけじゃないのよね」なんて、主婦が隣のばばあ評論を言い出すと、階下のゴミ捨て場で本が燃え尽きた。じじいは何も気にしないで、ゴミ袋を閉じていた。
 ゴミの再分類を命じられたじじいは、律儀にも地面へ本・ライター・タバコを順に置いたんだそうだ。ライターの上に置かれたタバコはプラスチックの外装を溶かしてドロドロにした。じじいがゴミ袋を開けて中身を取り出しはじめると、溶けたライターからオイルが出て、ぼっ、と本に燃えうつった。
「爆発するかと思ったけど、別にそんなことないのね、ぼっ、て、燃えただけ」
「その間、あんたは何してたんだ」
「そりゃ、見てたわよ、びっくりして」
 ゴミの再分類を終えたじじいは、腰を叩きながら部屋へ戻った。本とライターとタバコのことは、もうすっかりなかったことみたいだった。コンクリートの上に、ケシズミみたいになった本とライターの残骸があった。
 じじいの遺したものは、全部古道具屋に売れた。大家は古道具屋が帰り際にバイトへ向って「バカで良かった。今日はボーナス出すぞ」と言っていたので、あの中に何か価値のあるものがあったに違いない、と悔しがっていた。おれも大家も、それが何であるかはわからなかった。外国語で書かれた古そうな本か、それとも使い道のわからない壊れた機械か、何にせよ薄汚れてほこりにまみれて陽に灼けたそれらのものに、おれたちは一切価値を見いだすことができなかった。
 だから、じじいは殺されたんだと、おれは思う。わかるか。一方的な価値、どこかで流通しているが、おれたちの知らない価値、そんなものが、じじいを孤独にし、貧乏にし、そして狂わせたんだ。じじいが生きているうちに古道具屋が来たら、じじいはもう少し長く生きられただろうか? いや、じじいにもきっと、自分の持っている価値がわかっていなかったに違いない。それか、自分の思っている価値と、古道具屋の思っている価値に、大きな開きがあったんだ。だからじじいは殺された。
 生きる奴は、何があっても生きる。ほかの奴らには到底思いもつかないようなことをして、生き延びる。おれたちとは関係のない連中だ。関係がないといっても、テレビや、雑誌の中にいる、気持ちの悪い奴らとも違う。生きる奴は、絶対に顔を見せない、似たような連中の中にまぎれて、必死でしがみついて生きる。テレビや雑誌の中にいる気持ち悪い奴らは、これは秘密なのだが、実は人間じゃない。だから殺したり殺されたりすることもない。それが奴らの価値だからだ。価値を失うと、奴らは人間になる、そして、生きたり、死んだり、殺したり、殺されたりする。
 何の話だっけ?ああそう、おれは殺す側でいたい。もうわかってると思うが、死ぬとか殺すとか、じっさいにどうであるかは関係ない。最後のとき、どうだったか、それだけが重要だ。殺す側には一切の価値がない、ひとの価値を決めて、裁定を下すのが、殺す側の仕事だ。ほら、ここをこうして、こうすると、死ぬ。
 わめくなよ、時間はたっぷりとあるんだ、まだ死ななくていい。でもどうだろう、どのみち死ぬんだから、今死んでもいいと思ったんじゃないか? お前は沢山殺してきたかもしれないが、やっぱりただの死にたがりなんだよ。生きる奴はこんなところにはいないし、殺される奴ならもっと抵抗するだろ、ほら、ここをこうしてこうすると、死ぬんだ。
 おれは最近、ずっと「価値」について考えてるんだ。夕陽がしずむ、きれいだな。たとえばおれにはなんだかよくわからない技術がある。でもそれは、どこで、何という名前をつければ、いくらの値がつくのか、わからない。自分で自分に値段をつけられない。だからずっと殺される側だったんだ。お前ならこの夕陽にいくらの値段をつける?
 いいんだ、おれがお前に値段をつけてやるよ、だから安心して、死ぬんだ。
 
 
 

自分探しが止まらない (SB新書)

自分探しが止まらない (SB新書)

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