絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

君はいったいマンガの何を見ているのか。

 コマというフレームは、平面の上に描かれたものだから、便宜上このような平面であるように思われている。

図1
 だが、マンガの中にはこのようなコマが存在する。向って左手前の人物はこっちを向いているのに、その人物に殴られた人物は奥へ飛んでいってしまう。

図2
 しかも手前の人物は顔面をこちらに向けているのに、顔の内部は背後に飛んでいく人物を見ている。ほんらいは奥に向っていく人物を見る場合、私たちに見えるのは背中のはずだ。つまり読者に見えるのは。左手前の人物を背後からとらえた

図3
 のような絵か、もしくは奥の人物を手前に配し、左の人物を正面からとらえた

図4
 となってしまう。だが、多くの場合、そうはならない。まるで別のカメラで撮って、あとで合成したかのようだ。図2のような画面を、私は以前「マンガの絵は必ずゆがんでいる」と書いた。つまり、図5のようなゆがんだ空間があり、それを平面のフレームでとらえたものが、マンガのコマなのだ、と解釈したわけだ。

図5 ゆがんだ空間

図6 それを平面のフレームでとらえた図
 これは一面的には正しいが、まったくもって全体としては正しくない。これが後述する「フレームの魔力」の限界だ。コマを平面でとらえることは、このような誤謬を正しいものとして見せてしまう。実際は、こうだ。私たちが見ているマンガのコマは、図7のように、立体の風景にかぶさった膜のようなものだ。私たちはそれを平面に翻訳して見ているというわけだ。この絵は二次元なので、上から見た図にあわせてあるが、もちろんこの膜は、上下方向にもゆがんでいる。重要なものには重力があり、擬似的に重力レンズ効果を起こす、そんなふうにたとえてもいい。

図7
 こうしてあらわれたマンガに、いったい君は何を見ているのか。
 たとえばグルメ雑誌を見てみよう。そこにはつややかな寿司、ほどよく焼けたパン、慎重にゆでられた豚肉などの写真が、食べられる場所、値段、そしていかにその食物が美味であるかの賞賛とともに、誌上へ載せられているだろう。ここに、君が見るものは何だろう。
 書棚にある進化論について書かれた一般書を開いてみると、ある種が分化して今の形になるさまが、系統樹に描かれている。宇宙についての本には、ビッグバンの数秒間で何が起ったかが。模型雑誌には新しく発売される模型の作例が。音楽雑誌には発売前のアルバムについてインタビューを受けるアーティストの言葉が載っている。ここに、君が見るものは、何だろう。
 フィクションとノンフィクションを分ける必要がないことに気づけたなら、君はずいぶんとはっきりそれを見ているようだ。そう、たとえばSF小説なら、半裸の美女を悪辣な火星人から守るのも、ナノテクノロジーが発達した近未来で精神を変容させるのも、同じことだ。どちらも現実にはないものだが、確かに私たちはそれらの中に「それ」を見る。もちろん私たちが見ているのは、それらをあらわした言葉の列ではないし「半裸の美女」や、まして正体不明の「変容した精神」なんてものでもない。実際の歴史を映した映像を見るときも、ミニチュアや合成を駆使した特撮映像を見るときも、私たちは同じ「それ」を見る。

結局のところ、言うまでもないことだが、本当の戦争の話というのは戦争についての話ではない。絶対に。
ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』村上春樹=訳

 マンガで描かれているものは、絵ではない、言葉ではない、記号ですらない、それはマンガそのものだ。これは当てずっぽうの逃げ口上ではない。こうしてマンガについて何かの言葉を弄するのは、いくつもの言語を介して辞書を翻訳するようなものだ。
 人間はなぜ前を向くのか、それは二つの目が前を向いているからだ。では過去はどこにあるのか? さあ、自分の体を時間の流れにおいてみよう、時間はどこからどこへと流れているように思えるだろうか。もし「右から左」や「左から右」に流れているとしたら、君はまだ時間の流れの中に身を置いてはいない。はたから見れば、時間はどこからかやって来て、どこかへ流れていくように見えるだろう。けれど自分の体をその流れの中におけば、自然とそれは前から後ろへ流れているはずだ。それは当然のように、時間というものの性質をなんらあらわしてはいない。ただ単に私たちが、すべてのものは前をはじめにして、後ろで終わるような気になっているだけだ。
 ではくらげの前と、うしろはどこか。くらげの体には、周囲をとりかこむように目(受光器官)がある。くらげは縦に増える。おそらく私たちが「上下」と呼ぶものが、くらげの「前後」に相当するのではないかと私は思う。君がどう思おうとかまわない、ただ「くらげの前後はわからない」ということがわかってくれたらそれでいい。
 さあ核心に近づいてきた。私はこの文章を打ちながら考え、考えながら打っている。だからその思考は左から右へ、左上から右下へと進んでいく。段落の左上だけを見てみよう。次に右下。それが横書きにされた文章の読み方というものだ。ここで間違えてはいけないのが、マンガを右上から左下に読むものだと思いこむことだ。マンガを本の形式にとらわれて理解しようとすれば、それはおのずと使っている言語のルールに縛られたものになる。縦書きの文章を読むときには右上から左下に読むのだから、セリフが縦書きのマンガならそのように読むのが正しい読み方だ。とんでもない。何度でも繰り返そう。マンガは絵ではない、言葉ではない、記号ですらない。マンガには、マンガだけが持つルールがある。そしてそれは、この文章が「左上から右下」へのルールを逸脱しはじめるこの段落から始まる。
 コマとコマの関連、とあるひとは言った。コマ内での位置とページ全体の相関、とまたあるひとは言った。しかしそれらは映画や舞台劇の持つ法則性と、どうしても似通ったものになってしまう。なぜならコマを四角い枠としてとらえたときに、ひとは「フレームの魔力」にとらわれてしまうからだ。特定の思想にもとづいた考え方をすると気が楽になる、だがそれはあるフレームから景色を眺めて「これが世界の全てだ」と言うのにひとしい。今、君の前に一番わかりやすいフレームがある。モニタだ。
 君はいま、パソコンの内部で起っていることを、何らかのインターフェイスを通じなければ理解することができない。逆を言えば、モニタというフレームの中で起っていることが、君にとってはパソコンの全てなんだ。悲しいことに、どれだけ詳しくパソコンのことを知ろうと思っても、きみは何らかのフレームを利用しなければ、それを知ることはできない。言語とか、図像とか、何かに翻訳しなければ理解することができないんだ。いつか脳に直接パソコンを接続出来る日が来たら、パソコンの全てがわかるだろうか?たぶん無理だろう、人間の脳は、見たことがないものを、見ることができないのだ。
 それをまとめて言えば「見たと思ったことがないものを、正確な形で見ることがとても難しい」とでもなるんだろうか。子供の描いた絵を見ると、発達にしたがって認識が変化していくさまを見ることができる。まずは顔に手足の生えたもの、次に大きな顔と小さな体、やがて頭身が伸びて細部がはっきりとあらわれてくる。視覚もまた、言語のように、学習することで複雑化していく。マンガだけが持つ独自のルールは、この「視覚の発達」と共にある。
 マンガにしか存在しない「それ」が、なぜマンガだけに見えるのか。少しだけわかったような気がする。そして唐突にこの文章は終わる、とくに理由はない、人生のようなものだ。