絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

我が息子よ、ジャバウォックに用心あれ!

進化心理学で宗教や道徳の起源として重視されるのは、群淘汰によって形成されたと考えられる集団維持の感情だが、著者は群淘汰が「原理的に起こりうる」ことは認めながら、曖昧な理由でそれを「重視しない」という。(中略)
宗教と科学の境界は、著者が信じるほど自明なものではない。アウシュヴィッツで600万人を殺したのは、「優生学」という名の科学だった。無神論を掲げる「科学的社会主義」によって「粛清」や「大躍進」などで殺された人の数は、二つの大戦の戦死者を超え、過去のすべての宗教戦争の犠牲者を上回る。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/5713bcb84850ccfe5b15c36b42d98b9a(以下引用部分は同URLより)

 どうやらこの経済学者さんは、数百万年単位の出来事と、数千年単位の出来事が、区別できないらしい。

本質的な問題は、神がそれほど無意味なものなら、なぜ宗教が世界に普遍的に存在するのか、ということだ。

と、偉そうに書いているけれども、宗教なんて、生まれてたかが一万年ってところだろう。
 下手したら言語の発生に付随してるから、六千年くらいかもしれない。
 たったの六千年!
 そりゃ蝶の羽の色なら環境によって数年単位で代わるだろうけど、代替わりのスピードと、もともと備わってる変異の幅を忘れてもらっちゃ困る。
 人類が数百万年の進化によって得たのは「何かの原因を知ることで行動を変化させる」ってことなんであって、何かの原因そのものではない。

科学は宗教ではない。

 何かの原因、それは宗教でも科学でも良かった。
 ただ、原因を知ることができれば、それで物事はうまくいった。
 ここに、誤解のもとがある。

宗教と科学の境界は、著者が信じるほど自明なものではない。

 確かに宗教と科学の境界は、ある者にとって自明ではない。ただし、確実に違う点がひとつだけある。
 宗教を使うには信じることが必要だが、科学は信じていなくても使えればいい、ということだ。
 たとえば言語。これははじめ、宗教みたいなものだった。
 ある者が、何かを指し示すたとえを用いたとき、それが他の者によって使われるには、それがそれを指す、ということを信じる必要があった。
 それがやがて、親から子に受け継がれて「それそれを指す」ことが当たり前になる。(当たり前にならなかった言語は滅ぶ)
 なぜ当たり前になるか。再現性に優れていたからだ。その言語をくり返し使うことは、その言語を使うものたちに利益をもたらした(あるいは損が他の言語に比べて少なかった)。
 そのときに、その言語が正しいものであるとか、普遍的であるとか、神秘的だとか、信じる必要はなかった。
 一切信じる必要はなかった、鳥がその羽の役割を信じる必要がなかったように。
 日本語を見ればわかる。この言語には、ほんの千数百年前まで文字がなかった、濁音もなかった、だが今でも私たちはそれを――あなたの見ているこの文字列を――日本語だと知っている。そして、信じる必要がないから、自分の使いやすいようにカスタマイズして使う。「wwwwwwwうぇっうぇ」とか「 m9(^Д^)プギャー」なんてのもそうだし「≠〃ャ儿語レ£ちょ→ゃレ£〃レヽ」。
 宗教は言語の地位を目指している、だから優れた宗教は多言語に翻訳され、世界中に広まっている。個人単位で見れば言語と同じレベルで根付いている。無神論者の私だって頭をぶつけたときはとっさに「バチが当たった」と頭に浮かぶ。それがどれだけ非合理的な、偶然を必然として処理することで苦痛をやわらげる作用でしかないと、知っていても、そう頭に浮かぶのだ。
 ただそれは、その宗教が優れているから頭に浮かぶのではない。何かが起こったときに、人間はその原因を探るのだ。それは、生理的作用なのだ。その作用だけが、進化によって生まれたものなのだ。
 神は、その作用に理屈づけするための、道具に過ぎないのだああああああああっ。
「な、なんだってー!」

見た目と本質の違い。

 宗教は、ほんの数百年前までは方法として優れていた、なぜなら科学がなかったからだ。科学は多くの面において役にたったし便利だった、何よりそれを信じていなくても使えるという点で、宗教よりも伝染力が強かった。
 だから、科学を必要としない部門においては、宗教は未だに優れている。人間の非合理的欲求を解消するのは、宗教の得意とするところだからだ。パチスロや競馬、宝くじなどで得られるオカルト的な期待感や高揚感は、他の合理的な方法では得られないものだ。だからといって、そのような趣味を持つひとたちが、生活全てを宗教にささげているわけではない。
 多くの人間は、科学的なものと宗教的なものを、生活の中に混在させている。それは水の中に油を入れて、界面活性剤をぶちまけたようなものだ。水と油が分子レベルで融合し、別の物質になったわけではない。だが、見た目には水と油の区別がつかない液体に見えるだろう。
 科学と宗教の区別がつかないというのは、例えれば、こういうことだ。
 厳密に突き詰めれば、二つは区別することができる。だけど、人間の目で見られるレベルでは、二つを区別することは難しい。区別できることを理解するためには「分子」という、目で見るのが難しいもののたとえ話をするしかない。そのたとえ話では、油と水は区別のつくように色分けされていたりする。これを見て、池田信夫氏のようなひとは、言うのだ。
「水と油の境界は、著者が信じるほど自明なものではない」
 確かに目の前の液体は、赤や青で色分けされてはいない。だが、やっぱり、別のものなのだ。

用心あれ!

 氏が例えに出した「科学的社会主義」や「粛清」や「大躍進」も、同じような理由の誤解をもとに生まれる。科学と宗教の区別がつかないから、間違ったことでも信じて突き進むし、間違いを認められないし、自分のやっていることが科学だと思い込んでしまう。そういう「科学」とほんとうの科学を取り違えて、無神論的な科学はひどいものだと笑うひともいる。
 そういうひとは、油と水の混合液を見て言うのだ「ほらみろ、科学だって間違うことがあるじゃないか、水と油はまざるんだ」と。
 科学的なものの考え方は、身の丈を越えた世界を私たちに教えてくれる。それは刺激的で、恐ろしい魅力を持っている。しかし専門家ではない私たちは、それを我が身の見たものと誤解してはならない、それは理解しづらい「本質」を持っているくせに、いつでもわかりやすい「見た目」で私たちの前に現れる。そして私たちは、そのわかりやすい「見た目」に、すぐに惑わされてしまうのだから。