絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

「読解力」という言葉の罠。

zombie 『燃やして欲しいなんて言ってないだろ。他人の想像力にケチつける前に自分の読解力を嘆いてください。あなたの読書のほとんどが無駄だったことがこの記事で証明されました。今までの人生、誤読の積み重ねだったのでしょう。わざわざブログなんかに手を出さなきゃ生き恥を晒すこともなかったのに。道具を手に入れたゆえの悲劇。今後の人生、自分の読解力のなさとどう付き合って生きますか? 難儀ですねぇ。』
http://d.hatena.ne.jp/screammachine/20070513#p1

 以前書いた、森博嗣とアイドルが同じレベルの想像力、とみなした記事に対するコメントです。じっさい森博嗣も自身の日記で「まったく読解力のないひとは困っちゃうねえ、まあそういうバカは私から遠ざかっていくから別にいいけど」といった内容(筆者要約)のことを書いていて、とてもわかりやすくて良かったんですが*1、なんにせよ自分の文章に誰かが怒ったときに「読解力」って言葉でその誤解を指摘するのは避けたいものですね、と思う。それはなぜか。
「知力体力時の運」なんてえ申しますが、力というものは量るための基準がある。前の文で言えば、何で「時の運」には力がついていないのかというと、それは量る基準がないからです。ところがふしぎなもんで、人間ってのは量る基準がないものにも「力」って言葉をつけたがる。すると何だか、あいまいなものがハッキリ見えてくる。「目力」なんてのもそうですな、目から何か光線が出てるわけじゃない、目でダンベル持ち上げられるわけでもない、なのに力ってつけると、なんだかそこに実体があるような気がしてくる。
 読解力なんてのもね、使う場面によっては、もはや、ほとんどこの類だと思う。
 たとえばそのコメントがあった記事に、私はこんなことを書いた。

確かに芸術は「常識」や「因習」を破壊する力があるし、それを行使するのは芸術家の役目だろうけど、マリネッティファシズムに傾倒していったように、その破壊する矛の向かう先はいつも同じだ。そうなってくると、破壊する芸術ってのは理屈めいたところで結局過去に習っていることにならないか。

「その破壊する矛が向かう先」は、どこだろう。私は「常識」や「因習」に向くと思ってこの文章を書いた。ところが「マリネッティファシズムに傾倒していった」という一文から「破壊する芸術はファシズムに向かう」と読解した方から、反論をいただいた。私はこの文章を書き直すべきかと思ったけれども、それではリズムが崩れるかもしれないので、やめておいた。直すならこんな感じだろう。

確かに芸術は「常識」や「因習」を破壊する力があるし、それを行使するのは芸術家の役目だろうけど、その破壊する矛の向かう先はいつも同じだ。そうなってくると、破壊する芸術ってのは理屈めいたところで結局過去に習っていることにならないか。

 マリネッティは一時期共産主義にハマって、そのあと年をとってから転向してファシストになった。破壊する芸術は、過去を破壊する、けれど、生きていけばそのまま、破壊してきた自分の過去は、破壊すべき過去になる。つまり、それが何主義であれ、破壊する芸術は転向が起こる仕組みを持っていると書いたわけだ。私は、そういう意図を込めて「マリネッティが…」と書いた。だがそれは、うまく伝わらなかった。
 これは読解力の問題だろうか? 私はそう思わない、マリネッティの転向に対して同じ感想を持つかどうかで、この文章の意味はまったく違ってきてしまうからだ。マリネッティは転向などしていない、最初からファシストさ、と考えるひとなら「破壊する芸術はファシズムに向かう」と解釈しても、仕方がない。
 そこで、読解力という言葉について思いをはせると、こりゃどうも手軽に使ってる奴には話が通じないな、と思う。
 他人は自分ではないし、自分は他人ではない。必ず読解できる文章というのは単純でつまらないし、誤解されるようにわざと書くこともある。私は企画屋なので、同じことを何度も何度も違うかたちで書くことに慣れているから、ブログぐらいではひとつしかないことを、ひとつしかない形で書きたいと思う。違う表現では伝わらないことを、その形で書きたいと思う。だから、それが伝わらないのを、何か見えない力の不足によるものだとは、思いたくない。私があの記事で書きたかったことは何か? そんな大切なことは教えてあげない。
 今回の文章で書きたかったのは、簡単なことだ。作家の本意が理解できなくたって、本を読んでもいいのだ。面白ければ。いや、面白くなくたって、読んでいいのである。読書は、知能の高いものや、知識の多いもの、収入の高いものだけが独占していい権利ではないのだ。そして、知能の高いものは、率先して誤読と曲解、そして妄想をふくらませて、物事を面白がるべきだ。
 なぜならその方が面白いからである。
 
 あと余談だけど、これは勉強になった。

「もう森博嗣なんか金輪際読むものか!」と本を山積みにして燃やされたとしたら、そちらの方が、ブックオフや図書館よりは、多少良い状態かな、とは思うけれど……。
↓真意
世の中にはいろいろな人がいる。どうしても肌が合わない人というのは、誰にでもいるものだ。森博嗣が大嫌いで、僕の本を燃やしたい人も、もちろんいることだろう。そういう人とは僕もあまり関わりたくないから、「その人が僕の本を燃やして関係を絶ってくれる」ことは嬉しいことだ。一方、図書館や古書店で小説の新刊が読まれることは、これからの新人小説家を育てるには多少の障害になるので、これは非常に喜ばしいこと、とは僕はいえない。両者を比較すれば、当然、前者の方が良い状況である。難しかったかな?

 真意の方をちぢめてみよう。

1.本を燃やしたい人とは関わりたくない、「その人が僕の本を燃やして関係を絶ってくれる」ことは嬉しい。
2.図書館や古書店で小説の新刊が読まれると、新人小説家を育てるには多少の障害になる。
3.両者を比較すれば、当然、前者の方が良い状況である。難しかったかな?

 ごめん、比較する理由が全然わからないので、1と2が別のことを指しているとは気づかなかった。何で既存の本を燃やすことと、新人作家の本が図書館で読まれることが、比較できるのだ? 読者はこれを元の文から読解してんの? すげーな、尊敬する。

*1:じっさい森博嗣の小説は二冊しか読んでいない。『数奇にして模型』での人体のかたどり方法があまりにバカバカしくて笑ってしまったので、森博嗣的にはオーケーだと思う