絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

正義の限界と限界の正義-西森博之『お茶にごす。』への期待-

西森博之の新連載『お茶にごす。』が面白いという話。

 単純に代表作『今日から俺は!』の逆バージョンとして原点回帰を感じる作品なんだけれども、そこに前作『道士郎でござる』で描ききれなかった、というか構造的に描けなくなってしまった「限界以降の正義」について描けそうなこのマンガに、私は期待している。
 正義には限界がある。戦争マニアが「君の神様と私の神様、正気なのはどっち?」と訊くまでもなく、正義なんて恣意的なものだ。それに、主人公がただ正義正義と叫ぶマンガなんて昔からなかった(石森手塚を持ち上げるわけじゃないけど、理由もなく正義を持ち出す主人公って誰かいたかしら)。

「正義」という言葉が胡散臭いことは、前提条件だ。

 だからといって「正義なんてないさ」とうそぶいてばかりでは、マンガは成り立たない。読者が能動的にマンガを読む以上、死ぬことや破壊すること、捨てること、あきらめることは、テーマにこそなれ、是とはならない(本当にそう思うならマンガ読むのもめんどくせえだろ)。そこで作家や編集者は、正義が執行されるための理屈を考える。とてつもなく悪い奴がいる、友達を助けなきゃいけない、仲間を守るために戦いに勝たねばならない、勝てば相手も改心して仲間になる……。提示される何がしかの正義は、読むことの正当性を保持する理由になる。

でも、限界は来る。

 殴れば殴り返される、殺せば命を狙われる。戦いに限りはないし、正義じゃメシが食えない、流れ者だって生きるには洗面器が必要なのだ。
 そのループを断ち切るには? 戦わないことを選ぶしかない。そして連載は終わる。
道士郎でござる』が素晴らしかったのは、主人公健助の弱さだ。彼は弱い、弱いがゆえに智慧をめぐらせて悪を退治する、もちろん彼は、自分が正義だから悪を退治するのではなく、悪が邪魔だから戦いを挑むのだ。
 ところが、健助を殿と慕う道士郎が最強だったせいで、何だかその構図がおかしなことになってしまった。自覚するとおり、健助は大量破壊兵器を持った小国の主みたいになる。その破壊兵器が作動すれば、物語は破綻する。なぜなら最強だから。
 物語の中で描かれた「主人公が役に立たない」「道士郎が間に合わない」というドラマは、それが魅力ではあったけれど、まるでジョーと戦うために力石が壮絶な減量をしたことを、というのは言いすぎかもしれないが思い出させる。ある程度は、そうせざるを得ない構造を作ってしまったことが原因だったのではないかと思う。

外見と内面の一致/不一致

『道士郎〜』には「外見と内面の一致/不一致」をテーマにした西森の、実験と挑戦が含まれていた。「外見と内面の一致」
 テーマではなく、前提としての一致。だがそれは、あまりに無謀な挑戦だった。短い連載期間が、それを物語る。
 そこで、新連載である。
お茶にごす。』の主人公は、悪辣な外見を持つ、暴力的な少年だ。外見と内面は見事に一致している。怒りにまかせて人を殴り、言い訳をして、問題から目をそらす。まっこと主人公にはふさわしくない悪人物である。
 だがその一致を、彼は不一致と感じているのである。
 物語は、彼が「今日から俺は」普通の人になると決心することをスタート地点にして始まる。
 面白い。彼の行動原理はバームクーヘンのように多層構造だが、シンプルだ。彼には言葉としての正義がなく、間違いを犯しながら、自分の正しいと思う道を生きていく。ここに他の成長物語とは一線を置く、西森にしか描けない正義像がある。主人公はおそらく成長しないだろう、いつまでも同じ過ちを繰り返すだろう。だが、まわりの者たちは、主人公の望む姿を想像する。成長するのはキャラクターではなく、まわりと彼の関係性なのだ。そして、その中で揺れ動く主人公は、絶対的な正義を言葉にせず、その解釈は読者にゆだねられる。

正義の限界、限界の正義

 西森がヤングサンデー誌にて不定期連載をしている『事務員A子』は、事務員A子が誰かに怒りをぶつけるだけのマンガだ。そこには何の正義もない、大義も言い分もない、A子はただムカついたから殴る。これが不定期掲載であること、バックストーリーのない短編であることから、西森に「もう、そういうのは、大人向けだけでいいでしょう」と言われているような気がする。分別のある大人だから、このカタルシスがフィクション由来であることが理解できる。ムカついたからぶん殴っていいのは事務員A子だけ、そう思える。
 少年誌において、正義を描いてきた西森だからこそ、こうして正義の限界を描けるし、限界の中でたちのぼる正義を描くことができるのかもしれない。といってもまだ、どちらの戦いも始まったばかりなのだけれども。

追記

 主人公が内面の読めない恐ろしげな姿を持つことに『エンジェル伝説』との類似が指摘されているが、双方を読み比べればあくまで「類似」にとどまることがわかるだろう。『エンジェル伝説』においての正義は「主人公が善良である」ことに依拠する。これは、物語のテーマが、わかりあえないことをわかりあうこと、だからだ。主人公の本性を誤解したまま交流を続けるサブキャラクターたちと主人公、その本性を見抜いているのはヒロインだけ、刃森尊に代表される「本当は弱い主人公」の系譜につながるスタンダードなものだ。そして、その構図はパロディとして『エリートヤンキー三郎』にも引き継がれていく(三郎には正義がないため、ヒロインはそれを見抜き三郎を見捨てる)。