絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

小説は、どこに宿るのか。

 一昨日のコピペは、あの設問自体がそら恐ろしいものではないか、という思いを込めて書いたのだけれども、伝わったかどうか。正直まともに答えることは死を招くとしか思えない。
 何の話?【小説の書き方を教えてください】の話。
http://q.hatena.ne.jp/1172426828#a688255
 段落ごとにまとめて解説したxx-internetさんの作品しか読むことはできなかった。もちろん面白いことは置いて、まともに読むことができなかった、という部分については、どうだろう。私が神経質すぎるだけだろうか?昨日から偏頭痛が続き、薬を飲んでも一向に直らない。もちろん昨晩から寝ていないとか、モニターを見続けているとか、その他の要因はあるのだけど、私はそれを天気のせいにしたい。何だこの雨、降り止まぬ。
 質問者がスタンダードを作り、後の回答者はそれを踏襲しただけに過ぎないということは理解する。それだけに、無邪気に提案された「行の頭に[数字]をつける」という奇矯なスタイルが恐ろしい。脚本家であれば行はカットに相当するという、ならば行ごとに意義のある表現も可能かもしれない。だが設問には小説の書き方を教えろとある。小説であるならば段落が必要で――もちろん小説は自由であるから段落のない小説も有り得るけれども――行単位での分解はかなりのドタバタ騒ぎが必要になるはずだが全員粛々と礼儀正しくやっておる。ぎゃあ。想像してみよう、役者が演じるときにセリフの前にタグを吐いたらもはやそのセリフはタグ付きのセリフなのではないか。

A「いち、やあ、こんにちは」
に、突然Bに向かって話しかけるA。
B「さん、なんだい、やぶからぼうに」
A「し、べつに、なにということは、ないんだけれどもね」
B「ご、なにもないのにはなしかけることはないだろう、きみ」
ろく、BはAの首を絞めながらそっとAのテーブルにある紅茶をコーヒーに替える。

こりゃあ気味が悪い、それに解説することと言えばなぜ言葉の冒頭に数字が当てはめられているのか、そしてト書きがセリフと等価なのはなぜか、といった話である。こんなもの、物語としてどうかという以前の問題だ。小説とは、どこに宿るのだろうか。
 私は何も回答した方々を非難したいわけではない。わかっているのだ、私の書いていることが愚にも着かない重箱の隅であることは重々承知しているのだ。頭痛は止まぬ、さっきウォッカで二錠流し込んだ、ちっとも効きやしない、もしかしたら小麦粉のカタマリでも飲まされているんじゃないかと思う。プラシーボ効果って言うだろう、いま君が目にしているものの価値がプラシーボ効果ではないと、どうやって証明できるだろうか?いやむしろ後光効果の方がこの例えにはふさわしいだろうか。
 私にはどうも、後光の射す小説は、まぶしくて読めないのだ。