絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

科学が『ニセ科学』を糾弾できない本当の理由2.0

要約:ほとんどの人間は「推定>検証>理解」の順に思考するが、同じ順の説明で納得するのは難しい。なぜなら他者の推定に対して先に脳内で検証してしまうからである。
 先日『99.9%は仮説』という本を読みまして、ああ、この本は後ろから読むべき本だなあ、と思ったわけです。どういうことか。
 動物実験なんかをすると、ハトでも次に何が起こるかを推定するらしいですね。スキナー箱という、スイッチを押すとエサの出てくる箱を使って、いろいろ確かめられるようです。
 で、やっぱり人間も動物の一種なので、次に起こることを推定します。推定の材料は、これもハトやらと同じく過去の経験です。脳の中で以前にあった事と照らし合わせて、次に起こる事を想像するわけです。
 ですから、初めて遭遇する出来事や、頭で考えるより速い出来事には、なかなかうまく対応できません。ところが、何度も経験しているのに、感情を大きくゆさぶられる出来事なんかだと、やっぱりうまく対応できなかったりする。
 ハトも「スイッチを押す>エサ出る」というループを繰り返していると、突然「スイッチを二度押す>エサ出る」と変化したときに対応できないらしい。
 これは、逆に「何度も経験しているから」うまく対応できないんですね。
 人間はうまく生きるために、環境からいろいろな方法を学びます。それはハトと同じように「推定>検証>理解」という路を辿ります。この「推定」がくせもので、理想としてはあらゆる局面で冷静に対処してほしいものですが、どうも今まで経験したことだけを組み合わせるしか出来ないらしい。
 ある「方法」を良しとして生きていくと、その方法で考えることしか出来なくなるわけです。
 何かを説明する記事を読んでいて、素直に読めるときと、グッとつかえるときがあるでしょう。その差はどこにあるのか。私はそれを「説明の順番」にあると思う。
 論文を書くときは「まず要約を書いて、次に前提説明、そして結果、考察、結論、とやりなさい」なんて教えられる。これはモノが論文だから通用するやり方です、論文というのは基本的に頭から否定されることはありません(例外はありますが)、ところが普段生活するような気持ちで論文形式の記事に接すると「グッ」と飲み込めなくなることがある。
 問題は「結果(推定)>考察(検証)>結論(理解)」という順番にあります。人間はどうしても「結果」を出されたときにその原因を想像してしまう。ところが記事の筆者と読者は違う人間ですから、まったく同じ考えになることは珍しい。これは、いくら前提を共有しようと努力しても避けられないことです。
 結果は理解できる、結論も意味は通じる、だがその考察の方法が納得できない。『99.9%は仮説』という本に、私がおぼえたのも、この違和感でした。どうも私はこの本の考察がインチキくさく感じてしまう。結果と結論には異議がないだけに、この違和感には何か原因があるはずです。
 そこで私はこの本を逆から読んでみることにしました。まず筆者の主張する「理解」に共感を示すところから始めたわけです。すると「検証」部分におぼえた違和感の原因がわかる。
 私は、先に提示された「推定」から「あるべき検証方法」を勝手に想像していたのです。これでは筆者の望む「理解」にたどり着けるわけがありません。インテリジェント・デザインに対する甘い論考も、冒頭の扇情的な「飛行機」に関する最新ニュースも、全ては「理解」のために書かれたものです。
 科学が『ニセ科学』を糾弾できない表面的な理由は、科学が厳密さを求めるためであり「99.9%は仮説」だからです。どんなに間違っているように見えることでも、科学は「絶対にありえない」とは言えないのです。同じように、どんなに証拠があって完璧に見える理論でも「絶対にこうだ」とは言い切れないのが科学です。ニセ科学はそのスキをついて「9:1」を「5:5」に見せかけるのです。
 でも、よく考えてみれば、どんなに可能性があっても、反証できないのは科学ではないのですから、計算で答えが出る超ひも理論と証拠のまるでないインテリジェント・デザインは同じ場所にはないのです。ですからこれは「科学が『ニセ科学』を糾弾できない本当の理由」ではありません。
 人間は、生きてきた中で得た考え方でしか、物事を理解することができません。そして、世の中には新しい思考方法を絶対に受け入れない考え方や、自分たちの信じるものを絶対に否定できない考え方があります。それは「理解(結論)>検証(考察)>推定(結果)」という路を辿る考え方です。
 そして、ハトと同じように、人間もその考え方が一番楽にできます。
 つまり、人間にとって科学的思考とは、努力することでしか得られない思考方法だということです。
 なぜなら、毎日通る道を見て「これは本当に昨日通った道だろうか?」と考えていては、エサが手に入らない場合が多いからです。ですから、脳は、なるべくそういうことは考えずに生きていけるようにできている。ぶっちゃけると、これはもう環境と能力の問題であって、政治の範疇です。
 科学が『ニセ科学』を糾弾できない本当の理由は、それを糾弾したら、もう科学じゃないからです。
参照:http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20061226222936