絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

演劇と映画の違いについて友人と話した。

 映画では全てのカットが意味を持つように作られなければならないけど、舞台では全ての動きが勝手に意味を生んでしまう。訓練された観客は、役者の振る舞いを全てにおいて解釈する。解釈できない奴はタダの観客だ。
「お前、よく観客を撃ち殺せるなあ」
「あいつら、座ってるからな」
 じゃなくて。
 話は「映画ってすごいねえ」という風に流れたのだけど、私はそのあとで一人になって、演技について考えた。
 私は、役者が自らの身体をコントロールして演じることを理想としている。ただそれでも、右手のしていることを左手は知らないというか、言語化できない部分で自動的に動くものはある。もしその連なりの制御が法則化されれば、誰でも役者になれるんじゃないかと……南京玉すだれのコントロールを手元でやるようなものか。じゃあやっぱり誰でもできるわけがないな、結局、訓練と努力が必要だ。あとは勘のよさ?
 どこかでスイッチを入れると、身体が自動的に動く、みたいな話なのかなあ、単純化するとつまらない気がする。あんまりその点ばかり考えるとバレエの劣化版ってことになってしまう。そうじゃないのだ。
 
 話は変わるけど、小説に対するリテラシーがここ数週間でぐんぐん上がった実感がある。こういう波が数年に一回あって、そういう時にいい作品に出会えるとうれしさが増す。いやでも読む能力ばかりあがってもな。書く能力があがれば言うことないんだけど、そう簡単にはいかないな。
追記:
「映画では全てのカットが意味を持つように作られなければならない」という言葉に反論をいただいたので、追記します。
 私は映画を写真と同じように「余分な要素を消す」ものだと思っています。ですから「要素を消す」ことの不可能な「舞台」と対比させました。そこで「映画だって、役者の不意な部分を撮ることもある」という反論をもらったのですが、私はそれを「不意ではない余計な要素を消す」というふうにとらえました。舞台では要素を完全に消すことができない、だからそれをどう見せるか、そこに注目したいのです。映画、漫画、小説とは違い、詩や演劇はノイズ部分が面白さのもとなのではないでしょうか。音楽や舞踏、スポーツはその両方、とか。とりとめない話ですが。