絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

なぜプロセニアム・アーチ以前、以降で分けたのか。

要約:マンガの絵がうまいとは、どういうことか。の注釈に書いたことの、続き。
 
 なんかね、プロセニアム・アーチが16世紀の後ろッかわで生まれたことと、19世紀末から20世紀初頭にかけて、それを批判する動きが出てきたことに、どうも関係があるように思えるんですよ。というのもブレヒトはなんつうか「演劇は批判的に観ろ」とかそういうことを言ったでしょ、それってでも「観客は舞台を批判的に観てない」っていう前提があんのね。
 あの、最初はね、プロセニアムアーチって「便利だ!」って受け止められ方だったと思うんですよ、イタリアで生まれて、イギリスに輸入されて、みんなが何で使ったかというと、便利だったから。
 何に便利だったか。これはね、あんまり知らないのに書いてますから詳しいひとに教えてほしいんだけど、舞台演劇って昔は客席との境が薄かったわけですよね、これはもう西洋も東洋も問わず、なんか薄かったらしい。ところで16世紀にイタリアではー……あ、これ書くのやだなあ、ほら、アレがあったでしょう、ね、ローマ略奪。
 影響してないはずがないと思うんだよね、素人の妄想によると。まあそういう時代にね、こう、新しい表現の方法として、プロセニアム・アーチが生まれたわけだけれども、それを「面白そうだから」って理由で生まれた、というふうにはどうも、思いづらい。勝手な推測ですけど、何だかわからない状況で殺されるようなときにやることって、意味はよくわからないけど当人にとっては必死なことだったりするわけですよ。
 でね、ええと、イギリスで演劇が禁止された時期があるんだって。17世紀、ピューリタン革命の頃に劇場やらが打ち壊されて、復活したのがええと、20年くらいあと。で、それまではフランス式の張り出し舞台だったのが、イタリア式のプロセニアム・アーチの舞台になっちゃった。それでも張り出しがついて、幕前芝居ができるようになっていたらしいけど。これもまあ、当世ではやってるものを取り入れた、って言えば、そうなんだろうけど、劇場のない20年間で前のひとたちが全員死んだわけでもないだろうし、違う方式を取り入れるには、なんか事情があると思うんですよ。
 うん、それで、何が便利だったか、って話なんだけど、あのほら、辛いときって妄想するでしょ、幸せな風景、おいしい食べ物に囲まれて、フカフカのベッドで寝そべってるところとか。え? 地獄の猛火に焼かれながら鬼と殺しあってるのがおれの幸せな風景だって? まあそれでもいいですよ、なんにせよ現実逃避って必要じゃないですか、ないと死んじゃう。
 舞台を観るのがね、趣味のひとつになったのって、つい最近だと思うんだ、たぶん。単純に、江戸時代じゃ住んでるところから芝居をやっているところに行くのがもう一苦労だった、ってのもあるけど、値段だって高いし、毎月見に行くのはお大尽だったろうなあ、って思う。それはヨーロッパでも同じだったんじゃないか。あの何も調べないで書いてますからね、間違いがあったら指摘してくださいね。
 いろいろある前の、張り出し式の、客席との境目が薄い舞台ってね、現実逃避だけどもう一つの現実としてあったんだと思うんだ。だから素直に無批判に、目の前で起こっていることを楽しめた。でもほら、自分の人生にいろいろあると、フィクションって素直に楽しめなくなるでしょう、なる場合が多いでしょう。
 人生にえらい痛手を受けたときに、額縁は便利だったんじゃないかなあ。
 自分たちの人生に必要なものがあって、それがぶち壊されたり失わされたりして、でもそれを欲しいと思ったときに、ハイこれはウソの世界ですよ、って出されても、素直に楽しめなかったんでないか。そのために、「ここからむこうは、ウソですよ」という約束ごと、プロセニアム・アーチというのは、有効だったんではないかなあ。と思うわけです。
 で、19世紀になって、お前は一人の人間だから、神とかいねーから、って言われた中で「まじで?すごくね?」ってなったひと、えー、また登場願いますけれども、ブレヒトとかは、こう、演劇を見たときに「プロセニアムいらなくね?っていうか現実見つめるべきじゃね?」って思ったのかもなあ、って想像をしました。
 そんで、マンガってものの表現がここ100年くらいの間にぐんぐん変化していってるのを、私は映像というものが生まれたからじゃないかなあ、と考えたわけです。あのこれ「映画的表現」とかいうのとは関係ないですからね。ズームアップ技法が、とかそういう話じゃない。
 映像というのは、絶対に額縁があるんです。風景や生き物の姿を切り取る、ってよく言いますけど、フィルムが形あるものなので、これはもう仕方ないんですね、絶対にどこかで現実との境目が出来てしまう。出来てしまうくせに、映画の歴史でよく出てくるアレ、向こうから列車が来て観客がパニック!って話があるでしょう、あんな風に本気でそれを信じてしまうことがある。
 それと、写真で馬が走るのを撮ったら今まで目で見ていたのとあまりに違ったのでショックだった、という話もそうですけど、人間が見られないものまで見れるようにしてしまった、というのがある。
 こんなものが生まれる前と後で、感覚が同じわけないんですよ。
 そこで、額縁芝居というものと、マンガのつながりを考えてしまったわけです。マンガは映像によって生まれたキュビズム的要素を持っているけれども、それはどうしても額縁演劇時代の「観客に伝える」という根源的な欲求を持っているんではないか、だからマンガの絵は歪んでしまうのではないか、と。
 まとまりがなくて申し訳ないんですが、もっと調べてからよく考えたいと思います。続き読みたいひとっていますかね、一人でもいたらちゃんと調べて書きます。