絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

書くことがなくなったときには。

 キーボードに目を落としてみる。乳白色だったキーボードが、長年吸っていたタバコのヤニでうす黄色く汚れている。飲みこぼしたコーヒーや、食べたスナック菓子のカスが、キーの下にはたまっているのだろう。よく使うキーの文字は薄れて消えかけている。
 逆に、あまり使わないキーの表面は垢で汚れて黒ずんでいる。テンキーの7、8、9に至ってはうっすらと膜が張ったようになっていて、あまり使わない+キーはこぼしたコーヒーのしみがついているだけだ。よく見るとあまり使わないはずの−が軽く汚れていて、よく使うEnterはツルツルだ。また、4と5の下半分だけが白く、6だけが強く汚れているなど、テンキーには不可解な点が多い。
 それに比べてBackspaceのつややかさは対照的で、他のどのキーと並べても遜色ないほど光っている。キーの表面はざらざらとして、まるで鋳造した戦車の砲塔のように梨地調に加工されているのだが、よく使うキーはその梨地調の表面が削れて、ツルツルになっているのである。
 日本語の母音であるa、i、u、e、oにその現象は顕著で、特に力の入りやすい位置にあるoなどプリントされた文字自体が消えてしまうほどだ。というのもキータッチ時に指が触れる部分はキーの位置によって違い、aは左手の薬指が斜めに接しているためにあまり力が入らず、触れる回数は多いもののさほど文字は消えていない、しかしoは中指が真直ぐに接するため手首からの力も入りやすく、oと入力するときは普段のカチャカチャした音ではなくカシャンと大きな音がするほどである。
 私は「書くことがない」という文字列を入力するためにキーを叩く。kakukotoganai、ローマ字に解体されたその言葉はキーボードを通して画面に表示される。書くことがない。カクコトガナイ。私はそれを見てウソだと直感的に見破ることが出来る。なぜなら私には書くことがあるからだ。その現象は書くことがないという文字列をkakukotoganaiとローマ字に分解することで生まれる気がするがそれ以上に難しいことは私にはわからない。わからないと書くことで議論から逃れているのかもしれないが、とにかく私には書くべきことも書くにあたいすることも書かざるを得ないこともなにもない。
 書くことがない。この文章がフィクションであるのはその一点に尽きるだろう。私は書くことがないから目の前にあるキーボードを描写して見せた。その瞬間私の「書くことがない」はウソになってしまった。
 私はモニターの黒い部分に映った男の顔を見る。その男はメガネをかけていて髪が長く、無精ひげを生やしている。首が太く、肩がもりあがってはいるが、スポーツマン的な要素は何一つない。子供の頃から姿勢が悪く頭が大きいために猪首になってしまった印象を受ける。さっき人を殺してきたと言われればそんな顔にも見えるし、さっきトイレで食ったばかりの飯を全部吐き戻してきたのだと言われればそうも見える。モニターの黒い部分に映っているということをさっぴいても色の悪い疲れた顔をしている。ただその疲れた顔をしているということだけが真実で、その他の要素は全て付け足しに思える。
 私には書くことがない、書くことがないということは、こんなにも書くことのできることだったのかと、私は驚く。驚いた瞬間にそのことは書くべきことになってしまい、書くことのある私はもう書くことのない恐ろしさとそれでも書き進めてしまったことの高揚感を失ってしまい、あとは書くべきことを書くだけの奴隷へと成り下がってしまう。書くことがないということは、なんと優雅で美しいことなのだろうか。私はもう書けない、なぜなら私はもはや、書きたくて仕方がないのだから。