絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

書くことがなくなったときには。

要約:「書くことがなくなった」という問題自体に疑問を持とう。

何のために書いているのか、なんて、考えるだけムダ。

 ナイスなブログを続けるためには一定の間隔で更新しなければならない。しかし、いつでもナイスなエントリが書けるわけではない。特に、大きな反応があった直後に書いた、自信のあるエントリの反応が薄かった場合などは、どうしても、その次に書くのはいいわけじみたものになりがちだ。
 いいわけじみたエントリは、二重の意味で悲惨な結果をもたらす。
 第一に、普段から君のブログに共感している読者にとって、そのいいわけは蛇足に過ぎない。君はサービスのつもりでそれを書いたのか?それとも理解されていないかもしれないという不安から?後者ならそのエントリは即削除するべきだし、前者なら少し生き方を改めた方がいい。
 私もよくやってしまう失敗の中で、最悪なものは「他者の善意悪意と取り違える」というものだけど、その次に最悪なのが「無反応を悪意と解釈する」ということだ。君のブログが誰かの悪口ばかりで埋め尽くされていないのならば、サイレントマジョリティの多くは君に好意的だ。
 その好意的な読者、つまり君を理解しようと努力している読者に対して「あのさあ、これって意味通じてる?」と聞くのは、まったく礼節に欠けたひどい行いだ。バカにしているとまでは言わないまでも、相手は信頼を失ったと感じるだろう。そろそろ君は、自信のなさが相手を貶めていることに気づいた方がいい。
 第二に、君のブログを否定的に見ている者は、そんないいわけに目を貸したりはしない。それどころか、もしかしたら「否定すべき敵」と思われていたものが「どうでもいい他人」へ格下げされてしまうことだってある。好きの反対は無関心とはよく言ったものだ。
 けれど、いいわけじみたエントリを書きたいという欲望は、まだ君がブログを続けたいと思っているいい証拠になる。
 もし書くべきことが見つからず、いいわけしか浮かばないなら、とにかく何でもいいから書いてみることだ。ローカルでいいわけを書いて、何度も推敲しながら言いたいことの本質を見極めれば、もっとスマートなかたちで次の記事に取り掛かることができるだろう。そのときに「私は何のためにブログを書いているのだろうか、おお!」などとロマンチシズムにおぼれないこと、ブログを書くことには生きるのと同じくらい意味はない。ブログで何を書くか、それだけがブログを書く意味なのだ。

だが、書くことが思い浮かばない。

 さあ、大きな問題が浮上してきた。ローカルで書く?何を?一行だって浮かばないんだ!
 そう、前述した「何のために?」という疑問はここで生まれる。こんなことなら仕事について書いておけばよかった、毎日食ったもの書くだけでよかった、空がきれいだとか、近所のネコが可愛いとか、テレビ面白いとか、そういうことを書いていれば「書くことが浮かばない」なんてことはなかった!  ニュースを見ても、他のブログを見ても、本を読んでも映画を観ても、何も浮かばない。思いつくことは誰かがすでに書いている気がする。書きたいから書いていたんだ、書きたくないのになぜ書かなきゃならない? そうだ、もう書くもんか! ジョジョーッ! おれはブログをやめるぞーッ!
 そして数日が経ち、一ヶ月が過ぎ、一年が瞬く間に終わりを告げる。君はブログを書かない人生を選択した。さて、何が変わるだろうか? それまでは、何かを見ればブログでどう取り上げるかを考えていた。それについて考え、書き、トラックバックを送りあい、コメント欄で議論した。その時間がすっぽりとなくなり、君はただ目に映るものを見て、思う。ああ、いいな、とか、ああ、悪いな、とか。
 人間が他の動物と違うのは、脳にもう一人の自分がハッキリといることだ、という話がある。人間は記憶と想像力を足して、これから自分が何をするか、今まで自分が何をしてきたかを、脳裏に浮かべることができる。
 君は、ブログをやめることで、このもう一人の自分を――殺す。
「違う、殺すなんて物騒な言い方はおかしい。それに順番が違うね、殺したんじゃない、もう死んでいたんだよ。死んでいたんだ、だから何も書けなくなった、終わったんだ」
 その通り、殺すなんて言い方はおかしいし、死んだわけでもない。「書けなくなること」と「書かないこと」には大きな隔たりがある。あえて書かないという選択をする前に「なぜ書き始めたのか」を考えよう。君はなぜブログを始めたのか。

我が名はレギオン、大勢であるが故に

 自分の行動が、全て理性のうえで行われていると断言できる者がどこにいるだろう。人間の自由意志
はその多くが生物学的な構造によって生み出される機械的な反応の組み合わせであって、意識できるレベルでの自由意志はさほど多くない。けれども「意識」によって日々の生活を送らざるを得ない私たちは、意識できるレベルでの自由意志こそ、自分を支配するものだと思わなければ生きていけない。
 君は、なぜブログを始めたのか。
 インターネットが生まれる以前から、人間は情報を共有することによってその文明を発達させてきた。文明の発達が停滞した時代にも、情報は共有された。その情報は文化や宗教と呼ばれ、言葉で伝えられた。言葉はウィルスのように感染し、それ自身を変化させながら増殖した。政治は言葉を分断したが、その政治もまた言葉によって成された。特定の言語は滅ぼされることもあったが、言葉そのものは死ななかった。
 君は、なぜブログを始めたのか。
 言葉は殺されない、言葉は滅びない、言葉は死なない。伝えられる内容は劣化していくが、言葉そのものは消え去らない。だから君がブログを書かなくて、君の中のもう一人の君がいなくなっても、言葉は痛くも痒くもない。だけど君が言葉を失ったら、君は生きていくのがとても難しくなる。
 そう、君がブログを始めたのではない、ブログが君を使い始めたのだ。
 だから、ブログから必要とされなくなった君は、書くことがなくなってしまった。
 ブログには意志がない、ブログにはウィルスと同じように活動する機能と、それを増殖させる機能しか存在しない。君の体を食いつくし、君の脳からリソースを引き出して、ブログは君を蹂躙する。脳を刺激して快楽物質を出させて、言葉は増殖する、君の手を使って、まるでインフルエンザウィルスが私たちの体を使って咳をするみたいに。

それでも言葉はウィルスではない。

 言葉を洗い流すことはできない、それは君たちの脳に食い込んで、君たちの一部になってしまった。ミトコンドリアが細胞の中で生きているように、君が生きている限り言葉は君の中で生き続ける。だからといってブログや言葉を擬人化して恐怖するのもやめよう。彼らは道具に過ぎない、ただ少し危険で、魅力的なだけだ。
 書くことがなくなったときは、こう考えるんだ。書いていたんじゃない、言葉によって書かされていたんだ、ってね。そして深呼吸して、あらためて世の中を眺めてみよう。どうだい、腹の立つことや気の休まることがたくさんあるじゃないか。それをただ書き出して、どう解釈するかは他のブログに任せよう。君は少し疲れだけなんだ、感染したときの熱や痙攣がひびいてね。
 君は言葉に感染して、大きな脳の一部になった、けれどそれは君の全てではない。君は今まで通りに生きていける、空の青さとか、雲の白さに感動したって誰も文句は言わない。あきらめてブログの奴隷になろう、読者と著者とを分ける必要すらない、誰もがブログを読み、誰もがブログを書く時代だ。
 君はただひとつ、大切なことを忘れなければいい。そうすれば、君は君でいられる。