絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ホステルがすごいらしい。

要約:嫌いなものは嫌いでいいが、その存在を否定するのは自分の首を絞める行為だからぶっ殺すつもりでやれよ稲垣メンバー

存在すら認めない。

「『キャビン・フィーバー』の汚名を返上」という、まったく意味のわからない紹介のされかた(キャビン・フィーバーはいい映画だった)をしているイーライ・ロスの新作『ホステル』だが、これがまあひっどい評判で、良識ある方々の眉をひそめさせているらしい。映画たるものそうでなくてはならず、それがホラーならばなおさらのこと、どんな評判かを濃縮した記事を見つけたので紹介する。

良いところがない。存在すら認めない。
http://www.tv-asahi.co.jp/ss/221/movie/top.html
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20061101より)

 タレントの稲垣吾郎メンバー(inSMAP)は、TV番組のコーナーでこの映画を全否定した。同番組内では他にも「『ホステル』を良いと思って観る人は人間としておかしい」といった発言をしていたらしく、検索すると稲垣ファンのブログでは喝采をもって迎えられているさまが見受けられる。

感情を正当化すると矛盾が生まれる。

 そもそもホラー映画とは不快感や恐怖を味わうために見るものであって、きれいな風景や人間同士の心の交歓は添え物でしかない(だからこそ美しい!)。だから仕事とはいえ意に沿わぬ映画を見せられた稲垣メンバーは怒りと不快をあらわにした。これはまったく正しい態度だろう、ホラー映画は全米で上映禁止にならねばならぬ、マリリンマンソンが行くところキリスト教徒がわめかねばならぬ。そもそも不快であるものを楽しむ変態的な娯楽なのだから、悪名も宣伝になるだろう。それに稲垣メンバーの信奉者は『ホステル』などという素晴らしく血みどろの映画を好んでは観に行かぬよ。
 だが、私はこれに「ネガティブ宣伝なんだから放っておきましょうよ」と言うことは、スマートかもしれないが、耐えられない。なぜなら稲垣メンバーはこの映画を「怖いから嫌いだ」とは言わないからだ。何かと理屈をつけて(タランティーノが苦手とか)「映画として優れていない」と評しようとするのだ。

映画を観るのに資格が必要か。

 私は、好きとか嫌いとか、そういう基準で映画をはかるのを、悪いことだとは言わない。仕事で意に沿わぬ映画を見ることもあるだろうし、観に行ったら期待したものと違った! というのもよくある話だ。テレビであれブログであれ、自分には合わないという言葉であればまだ、耐えられる。
 しかし、どうも成長して理屈がついてくると、好き嫌いで判断するのが、子供じみていて説得力がないように感じるらしい。だからこうして「人間としておかしい」とまで言わなければその正当性を主張できない。
 私はそれを、なんと醜い自己正当化だろうかと思うのだ。
 狂人には映画を観る資格がないか。
 殺人者には映画を観る資格がないか。
 ひとを殺したことがなく、しかしその描写を楽しいと思う者には映画を観る資格がないか。
 違う、映画を観るのに資格などというものは必要ない。誰にでも、好きなように好きな映画を好きなだけ観る権利があるはずだ。でかいことを言えば、それが虚構の同義反復めいた存在理由じゃないか。
 人間としておかしいから、それがどうした。モラルを犯したから、それがどうした。
 稲垣メンバーはもっと素直にありのままの心を書けばいい。もっと大きな声で叫べばいい。
 こんなひどい安っぽい映画を見ている奴はぶっ殺してやる!! とか
 人間が簡単に死ぬ映画なんか見て楽しんでる気違いは車で轢き殺してやる!
 とか、素直に言えばいい。
 そうしないならば、映画なんて優雅な娯楽を観て、ゴチャゴチャ言う自由が残されている世界に生きていることに、もう少し感謝して、あるひとつの映画を指して気に食わないからといって存在を否定するなんてことは(今のところ)しない方が得ではないかと思う。私は自分の作品で不快になった方からお叱りのメッセージをよくいただくのでそう思う。
 さあホステルを観に行こう、そして安っぽい人間が安っぽく残酷で救いがなく死んでいくところが描かれているかを観に行こう。それ以外の理由でスラッシュ映画を見に行くとしたらきみ、それはカレー屋に行って……(以下いつものカレーの例え話なので略)。