絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

「挨拶をしっかりする」「挨拶をしっかりする」「挨拶をしっかりする」さあ、みんなで唱えよう、ビッグブラザーが見張ってる。

 要約:ガキがバカなのは当たり前だが、挨拶くらいできるぞ。
 タイトル長いね。今日は首相官邸に置いてある、ふしぎな文章について考えてみるよ。
子どもへの方針
 これはひどい、そう思うかな。
 私もそう思う、これはひどい、特に最初がひどい。家庭が行うこと、学校が行うこと、地域が行うこと、それぞれすべて最初の文句が「挨拶をしっかりする」ってところが本当にひどい。ねえそう思わないかい。
 だってきみ「挨拶をしっかりする」という言葉が日本語として不味いというのは置いても、あまりに可哀想になってくるじゃないか。これを考えたひとたちの回りのガキは、まともな挨拶もできないらしい。

ガキどもは"しっかり"挨拶ができない?

 運がいいのか日ごろの行いか、私のまわりにいる、私と知り合いのガキどもは、私と会うと必ず挨拶をしてくれる、目礼の場合もあれば、小さな声で「おはようございます」と言うときもあるし、大きな声で「ハヨッス」と声をかけてくることもある。ちなみにハヨッスというのは「おはようございます」を縮めたものだ。
 地声の大きなガキは耳を押さえたくなる大声で挨拶をするし、気の弱いガキは蚊の泣くような声で挨拶をする。知り合いだけではない、たまに行く学校回りの舞台のあとなど、帰りに校舎の横を通るときは、窓に鈴なりになったガキどもが「ばいばい!」「さようなら!」「またね!」と挨拶をしてくる。もちろん教師の後ろに隠れてそっと手を振る可愛いガキもいる。廊下ですれ違うときに目を伏せるのは、私が怖いからではなくて、挨拶が恥ずかしいだけだ、私はそういうクソガキだったから、たぶんそうなんじゃないかと想像する。
 私はどうも、この「子どもへの方策」を読むと、この方策を考えたひとたちのまわりにいる挨拶のできないガキどもは、異常なんじゃないかと思えてくる。挨拶のできないガキなど、どこに存在するのか。連れてきて教えてほしい。
 皮肉に過ぎるか。わかっている、この文章はガキと接する事の少ない大人が、ガキを怖がって作っただけの、情けない代物だ。

教育が原因か

 ひとにぶつかっておいて「すみません」の一言が言えないサラリーマン、彼らが挨拶できないのはなぜか。電車の中で携帯電話を使い大声で喋る女を怒鳴ると連れの男に殴られるのはなぜか。それは教育が原因か、ばかな、そんなばかなことがあるか。
 サラリーマンがぶつかっても謝れないのは、満員電車で謝り続けていたら死ぬからだ。
 電車の中で注意すると殴られるのは、お前が殴りやすい顔をしていたからだ。
 ガキは何も考えていないから、ちゃんと挨拶をする、ためしに近所の小学校に行って、そしらぬ笑顔でガキどもに挨拶してみるといい、最初はびっくりしていたガキどもがしばらくすると近づいてきて一緒に遊び始めるだろう。何も知らない教師にサスマタで取り押さえられる前に逃げるのは当然として、一度はためしてもいいはずだ。ガキは何も知らないから、平気で挨拶をする。
 相手が敵でなければ、ガキはちゃんと、挨拶をする。

問題は挨拶ではないが、挨拶を問題視する視点は問題だ。

 もし万が一これらが実施されたとしても、たぶん現場レベルではそれなりに柔軟な対応がされるはずだと思う。キイキイ言ってる連中が何を言っても、わかってる奴は大丈夫だ。怖いのは自分のガキ一人しか相手にしていない親だろうな、サンプルが少ないとどうしたって視野は狭まる。ガキを集団生活させる前に、親をガキどもの群れに叩き込んではどうかな。まずは手始めに、教育改革国民会議とやらに出席していた連中を叩き込むのが先かね。
  とりあえずこいつらに挨拶して、返事がしっかりできるかどうか、ビデオに撮ってやりたい。