絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

理解の枠組みって、必要だけど簡単に決められない。

なんだか、80年代以降にも「少女漫画らしいもの」とされた漫画のラインナップだけど、いかにも男性が好みそうな少女マンガの羅列。いや、この人の言及する漫画自体がそもそも「そういう感じ」のものばっかりなのだ。とても恣意的なので「こうして内面が成立してまた拡散していった」とかいっても、まったく実証的といえない。
http://d.hatena.ne.jp/./nogamin/20061018/1161176807

 結論まで一気に読んで、更にコメント欄まで面白かった。
 で、私はマンガにおける性差というものは、現実と同じように歪められたりさほど違いがなかったりするものだと思っているのではあるけど、それは結局私にとって性差というものが曖昧だからで、まあひとそれぞれですよね、そういうの。それを統括できる理論なんてものを考えられたらすごい。
 あーつまりひとは読みたいものを読むわけです、だから書いてあっても目に入らないこともある。ちんぽないひとにちんぽのわずらわしさはわからないし、まんこないひとに生理について想像させてもいまいちリアリティがない。
 大塚英司にとって岡崎京子は80年代の作家でしかなくて、それは彼がリアルタイム(80年代)に彼女を見ていて、リアルタイム(90年代)に見ていなかった、ということなのだな、とか。雑記なのでダラ書きですみません。
 リンク先のコメント欄でもちょっと出てますが、子供時代に読んでいなかった作品についてひとは軽々しく語れない、もしくは軽々しく語ってしまう。これはおかしなことですが、並列します。
 人間というものは自分が生まれる前を想像するのは結構難しい。これは何かに出会う前と言い換えてもよろしい。誰かと恋愛をするときに、そのひとが前に付き合っていたひとを想像する。相手の中に、あなたが生まれる前の話です。
 そういう想像をすると、嫉妬心や敵愾心よりも先に、絶対に得ることのできない失われてしまった時間が浮かび上がるわけです。あらかじめ失われてるわけですよ!悲しい!どうしようもない!でも……好き……みたいな。
 私は図像的なアプローチが性に合っているので、その辺と「内面描写」とやらについて分析ができれば、作品に「出会う/出会わない」といった曖昧さの回避ができるのではないかと思った。って前のコメント欄で指摘されたことなのに自分で思いついたみたいに書いてますが。
 あと、これも気づかされたこと。私には片目の悪い友人がいて、彼は立体視ができない。だから私が「人間は二つの目で〜」と書いたときに、私は彼を人間の範疇から切り捨ててた。これはひどいことだ。
 だからこそ指摘にあった「マンガの顔の正面性」という言葉は私に響いた。左右の視差を表現するのではなく、その顔が正面への指向性を持っているということならば、私の友人は切り捨てられない。もちろんそこで全盲のひとは切り捨てられるのだが、そもそもマンガというメディアが大衆向けの視覚文化である以上、そこには性差よりも激しい根源的な差別が内包されているのである。その辺を意識して書くと足の裏がジリジリするので私はそうするべきだった。
 だからって偏った視点で性差を扱った理論が許されていいわけじゃなくて……ああ! いま私は猛烈にマンガの話がしたい! きめいのはわかってる!! でも何かダラダラと……うう。