絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

風邪は治りかけです。

 のどの奥が少しカリカリするだけで、ずいぶん良くなりました。あくびをしながら声を出すと、炎症の度合いがわかる気がします。あ、痰がからんでしまった、まだ治っていないのか。
 関係ないですけど、読んでいてイラっとさせられる感想に「私には必要ない」というのがありますな。
 イラっとするのには理由があって、たいがいそういう感想は「私には必要ない」のあとに「こんなくだらないものは……」と続くのであります。「必要ない」と書いてあるくせに、くだらないかどうかを示すのです。自分には必要ないだけで、他のひとには必要かもしれないのに。
 批評家という仕事があります。本や映画の感想を書く仕事です。そんなの誰だってできらあ、と思われる向きもあるかもしれませんが、どうも職業として成り立っているということは、どこかに違いがあるらしい。昼飯を食いながら上司が言う「今度の芥川賞読んだか、あれは云々」と批評家の仕事は何が違うんでしょうか。
 私は、まあ他のひともよく言いますが、こう思います。批評家というのは、その作品がどう優れているかの「どう」を見つける仕事なのだと。
 スポーツ批評なら点数以外のことを評しますな、文芸批評で本のあらすじを書く奴はへぼです。ところが批評が職業でないひとにとっては、その「どう」を見つけるのはえらく難しい。どうしたって誰かが褒めていたとか、見た目でわかるとかそういうところでケリをつけてしまう。
 評価軸を決めることで飯食ってるひとがいるわけですから、そう簡単に考えつくもんではないです。
 で、けなしたいときに、困るんですな。見たけど面白く感じなかった、なんとなくみんな褒めているけど自分には楽しめなかった、だけどそれを自分が悪いとは思いたくない、だって私は理解力があって、バカじゃないから。だから楽しめないのは作品が悪い!……でもそれをあらわす言葉が、私には、ない。
 だから、最初に「私には必要ない」とつけるわけです。そうすれば議論は回避できる、バカだとばれないですむ(ような気がする)。
 確かにあなたの人生には必要ないかもしれない、だけどそうやってWebでわざわざ誰でも読めるように書いたのは、理由があるはずです。もうやめましょう、わからないのは必要ないからではありません、知識がないからだし、楽しむ余裕がないからだし、理解力と観察力が低いからだし、だいたい理解しようと努力したわけじゃないはずです。
 ちゃんと書きましょう、わかりたかった、と。
 理解したかった、感動したかった、楽しみたかった、と正直に書きましょう。誰もそれをバカだとは思いません。その感想を読んだ作者は「伝わらなかったか」と落ち込むかもしれませんが、必ず次こそは楽しませてみせると努力するでしょう、なぜならひとに何かを伝えるということは、必ず傷つける可能性があること(この場合はつまらなさ)を内包しているからです。
 何だ、日記を書くつもりが誰かに向けて書いているようになってしまった。別に特定の誰かというわけではないです。上の文章を一言で言うと「甘えんな」なのだが。つーか、自分宛ということでひとつ。一人称が"私"だと表現がもにゃもにゃするよな。
 台風が近づいているそうだ、土日も仕事なのに面倒だが仕方ない。