絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

だから何だ?

要約:猫は殺してもいいが、日本でやってくれ。
 先日の記事にコメントがついた。id表記ではないのだが、便宜上id:samurai_kung_fuであることにして話を進めさせていただく。

# 侍功夫 『あぁ、そうだ。せめて新潮45に載っている方も読んでみてください。

 ということなので早速新潮45を買って、坂東眞砂子の緊急寄稿「子猫殺しバッシングの渦中で考えたこと」を読んでみた。うん、なるほど、確かにその通り、だから前回話題になったときおれは坂東眞砂子をことさらに批判しなかったし、今回のナチス発言に対して興奮したのだ。詳しく説明しよう。
 バンドーは言う。

この人たちは、肉を食べていないのだろうか。今回の『子猫殺し』のエッセイに対しての批判の渦が沸き起こった時、真っ先に私の頭に浮かんだのは、こんな思いだった。(中略)
最近、私は、自分の手で殺せる範囲の獣の肉を食べる、という食事の指針を作った。(中略)
避妊とは、この前提である「生きて、生きて、生きて、生きて」の根源を止めることだ。そう考えると、私にはできない。
(『新潮45』10月号 「子猫殺しバッシング」の渦中で考えたこと 坂東眞砂子 より引用)

 然り、前回の主張、それは「安穏と暮らす殺害者」にその罪を知らしめ、自らが生きることで他の生を奪っていることに自覚的であれと促すことだった。
 おれは、バンドーがそれを言うことがすでに欺瞞だと思う。東京で獣を殺して食うことがどれだけ大変なことか、バンドーは想像しているか。すでに東京に住まう獣は自然に生きる獣ではない。
 バンドーは「猫を殺したから騒いでいるのだ」と日本の歴史を持ち出すが、まったくその通りだろう。東京でネズミやハトを殺して食っています!という主張でも「生きるうえで他者を殺すこと」の重要さは充分に伝えられた。だがバンドーはそれをしなかった、そしてそれをしない日本に住む者を非難した。
 日常的に殺さないことを、日常的に殺せる環境にいるものが非難したのだ。
 おれはある日、公園で誰かの飼い犬がネズミを殺すのを見た。おれの目の前でネズミは息絶えた。ぴくぴくと動くふとももの、灰色の毛皮から桃色の筋肉が見えた。おれは食欲を刺激されたが、食うことは控えた、なぜなら食えば、耐性のついていないおれは、死ぬ可能性が高いからだ。東京の獣は汚染されている、排気ガスにまみれた高速道路沿いの米は捨てられる。牛の金玉も、スズメの丸焼きも、どれも東京のものではない。
 やがてカラスが、ネズミをさらって木々の間にとび、ついばみ始めた。
 同じ公園で、捨てられた子猫が鳴いていた。三匹のうち二匹はカラスについばまれて死んでいた。そのそばにいた年かさの女が、生き残った猫をつまんでどこかへ持っていった。
 バンドーの主張は正しい、ネットで大騒ぎした人々は、バンドーへ「死ね」と声高に叫んだ者たちは、目の前に死が転がっていること、その死が自分たちの生のうえにあることに、あまり自覚的でなかった可能性が高い。だがそれが日本の現状だろうか?それをもって「(日本人は)誰かが誰かを殺したがっている」と言うことになんの実効性があるだろう。
 おれはそこに、知的特権階級にいる者の、いやらしい決めつけを見るのだ。
 最初の主張は、あまりに当たり前のことだった、そしてそれに脊髄反射的に怒る者が出るのも当たり前のことだ。週刊文春に寄稿された東野圭吾の文章を読んだときにも感じたことだが、この方たちはどれだけ自分だけが賢く、常民は愚かで蒙昧で、当たり前のことに気づけない馬鹿だと決め付けたいのだろうか。そう主張することで目が覚めるものが少ないという現状に、何か気づけないものだろうか。

 この時の障害は、自由な意見交換である。お互い同調する人々の間での意見交換は、「和をもって尊し」の文化によって、和やかに愉しく運ばれる。しかし、意見の相違がある場合は難しい。そんな時、日本人にとって意見を言うとは、他者と会話を交わすためではなく、自分の意志表明であり、その意志を他者に押しつけることとなる。
 それは、私自身の問題でもある。
(中略)
 私は意見交換の最中に、しょっちゅう立ち往生する。反対意見を持ちだされると、聞きたくない、黙っていてくれ、と叫びたくなる。

 わかっているのに意見を押し付けてしまう、バンドーマサコはツンデレか。
 正しいことを言っているのもわかる、そしてそれがその手法でなければならないとあなたが信じていることも。
 だが、そのやり口では、うまくいかないのだ。なぜなら行動と理想が矛盾してる場合、多くのひとはその意見よりもやり口のまずさに拒否感を抱くからだ。
 さいごに、バンドーと侍功夫氏の書き込みとを並列してみよう。
坂東眞砂子

問題を明確にするために「殺意とは何か」をまず考えたい。殺意の土台にあるのは憎悪だ。憎悪から発した殺意が「殺し」にまで達するのは希で、たいていそれ以前に留まる。しかし、日との言動や行動を汚染し、中傷、罵詈雑言、対立を引き起こす。

功夫

『ああ、ボクもナチスドイツの例えを言うけど、自分の閉塞感から「閉塞してんのはユダヤ人のせいだ!ユダヤ人殺そーぜ!」という党の尻馬に乗って「みんなもそう思うよね」とチンコロする様なヤツは、実際に手を下したヤツよりも気持ち悪く感じる。反吐が出る。』

坂東眞砂子

だから自由に表現したいと思っても、危険なことをしていると感じて、躊躇し、止めてしまう。もしくは、その危険を前に攻撃的になり、その表現は危険そのものと化す。(ネット内での攻撃的表現にこれが当てはまる)

功夫

『う〜ん、違うけどわかられてしまったらしょうがない。一生わかってください。いろいろ。』

 さて、バンドーの主張を一番理解できていないのは誰か。
坂東眞砂子

この時の障害は、自由な意見交換である。(中略)
日本人にとって意見を言うとは、他者と会話を交わすためではなく、自分の意志表明であり、その意志を他者に押しつけることとなる。
それは、私自身の問題でもある。

功夫さん、もう一度「新潮45に載っている方」を読んでみてはいかがか。