絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

脳のタイミング問題について。

 君が何かをしようと思ったときよりも先に、脳がうごめいて何かを決定している、という話がある。ベンジャミン・リベットというひとがやった実験では、そのことが証明されてしまった。およそ300ミリ秒から500ミリ秒、君が決めたと思ったよりも先に脳は何かを決めているのだそうだ。
 この実験、スポーツとか、楽器とか、演技とか、その中でもタイミングが重要でかつアドリブ性の高いものを日常的にやっているひとなら、何がおかしいの?と思うだろう。なぜなら彼らは日常的に意識と行動の遅延を体験しているからだ。というよりむしろ「行動する肉体」があまりに早く、それを「意識する私」があまりに遅いことを、知っている。
 じゃあやっぱり脳にせよ肉体にせよ、精神とは別の何かが支配していて、君はその奴隷なんじゃないか、自由意志なんてないのじゃないか、という安易な結論に飛びついてどうだ怖いだろう、というのがてつがくのいつものテクニックである。ああそうそう、オカルトに行きたければどうぞご勝手に、とりあえずおれたちは脳の中に小さいおれがいるとか、魂の座がどっかにあって脳と交信しているだとか、そういう何にでも通用するうそには興味がない。
 脳は、何か特別な器官ではない、それは筋肉や他の内臓と同じ、組み合わせによって人間を形作るパーツに過ぎない。もちろん、人間が人間であるために必要なものの多く(言語とか、感情とか)は、脳に依存しているから、手足がなくなるのと脳がなくなるのとでは、重要度が違うように見える。だけどそれは心臓や肺がなくなったら死んでしまうのと同じくらいの重要度だと思って間違いない、単に脳は代替するための機械が開発されていないだけで、なぜ代替できないかというと、脳はそれ単体では存在できないふしぎな内臓だからだ。
 君が生きて経験してきたことや記憶していること、柱の傷は一昨年の、と歌にもあるとおり生活環境や君を包む社会、そして外部記憶装置としての本や映像、インターネット。どこからが君でどこからが君ではないか、それを明確に隔てる線は、実は存在しない。脳はその構成要素を目や耳や身体の受ける刺激によって確認している。
 君が「何かをしよう」と思ったとき、脳がその500ミリ秒前に「何かをしよう」と動くのは、まったく変なことでも何でもない。なぜならそのずっと前から「何か」に付随する事象は起こりまくっているからだ。
 ピッチャーがかまえ、ボールを投げる。ボールが飛んでくる、網膜にその姿が映ってから脳に届くまで50ミリ秒のズレがある、そのズレを補正しつつ脳は軌道を予測して肉体にその通過地点を伝え、肉体はその地点へ腕を動かしてボールを打つ。
 目の前に立った相手が、ジャブをはなつ、一発目は距離を多めにとり顔の二センチ前で止まり、二発目は二センチと少し踏み込んでくるが君は頭部の位置を後ろにずらして対応する。この二発が繰り出された時間は、およそ100ミリ秒。
 彼らは機械的に、意思を持たず、自動的に行動している、自由意思のない動物なのだろうか?
 たとえ話でも実験でも同じことだ、それによって彼らが日常的に何をどう判断しているかが決定されるわけではない。わけではないことを示して「自由意志なんてないんだ」「いや、拒否権発動は100ミリ秒であって自由意志はある」「そりゃ自由拒否だ」なんて議論することは、無意味ではないけれど繰り返すことではないだろう。
 君は君だが、他の誰かの一部でもある。そして他の誰かは、君の一部なのだ。
 その先の話がしたいんだおれは。
参照

マインド・タイム 脳と意識の時間

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自由は進化する

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