絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

うそ、まぼろし、ゆめ。

 この前、世界一怖いおばけ屋敷に入った。『サイレント・ヒル』という映画の宣伝でコマ劇前広場に建てられた小屋。入ると不快な音が鳴っている、鳴っている、鳴っている、出口。出るまで何も起こらない、だがその闇の中で「何も起こらない」ということがとても怖かった。映画は狂信者がひどい目にあうので痛快で面白かったけど、怖くはなかった。だけど、一緒に行った人はたいそう怖がっていた。ホラー映画をあまり見ないので怖いのだろうと帰りの喫茶店で話した。
 『LOFT』は師匠と行った。師匠はテレビで『恐怖のミイラ』を観て以来、ホラーものは怖いから見ていないそうだ。「ミイラと再会ですね」とおれは笑った。劇中、ミイラが動き出したシーンで劇場はほのかな笑いに包まれたのだが、すっかりトヨエツに感情移入してしまった師匠は「すごく怖くてトヨエツと同じ気持ちになったのに、客が笑い出したから、みんな頭がおかしくなったのかと思った」と感想を漏らした。
 なんだか小難しい顔をして映画を「わかる」必要なんてないと思う。もちろん「わかる」のは楽しいし、多視点で映画を観るのは気持ちの良いことだけれど、そればっかりが映画の楽しみではない、という意味だ。「わかる」のと「感じる」のは違うのである。
 わかろうわかろうとして、画面の中で描かれていないことについていちいち考えたり、映画の外側について考えて映画を楽しめないのを、映画のせいにすることはないと思う。そりゃあ、お門違いというものだろう。それならよほど「奴はおれだ!」と泣きながら叫ぶ方がいい。
 映画はゆめだ、まぼろしだ、おおきなうそだ。
 だけどそれは、がんばって見ないと、ただの光と影に変わってしまう、ちいさなちらつきだ。劇場に来て、スクリーンの前に座っただけでは、何も与えてはくれないのだ。何もしないで気持ちいい夢が見たいのなら、薬でもやって寝ていればいいのだ、とは言いすぎかもしれないが、そう思う。
 無理してまで、映画を観る必要なんてないのだから、自分に合った映画を、自分に合った量だけ観ればいいのである。
 というわけでおれは生首が出てくる映画も好きなので、今度は『ハイテンション』を観ます。
LOFT感想http://d.hatena.ne.jp/./screammachine/20060909#p3
太陽感想http://d.hatena.ne.jp/./screammachine/20060831#p1
追記

これって夢なんだろうな。高校時代の夢なのに会社の人間がいたりするのを不自然とも思わず認知したり、舞台が飛んでもそれを一切合財許容してゆく(させられてゆく)感覚。そして、自分の中での昭和天皇のあの時はこうだろうなという希望的観測との相似を脳が優先していって現実ではなされていないであろう交わされる会話や行為もどしどし流れ込んでゆくという。そして好意に満たされてゆく
http://d.hatena.ne.jp/diekatze/20060912#1158069886

突拍子も無く唐突に幕を閉じる最後の最後まで、1コマも漏らさずに“映画”なんだが、似た映画は無い。幽霊やミイラが出るからホラーに置いてみたところで居心地の悪さは明白で、サスペンスに置き替えてみてもスンナリとリストに名を列ねようとしない。何だこれは?と思ってみても見事なまでに映画としか言い様の無い映画。
http://d.hatena.ne.jp/samurai_kung_fu/20060911#p1

 そうだ、こういう感じのことが書きたかったのだ。でもなんか書けないのだ。