それでもいいと言うのなら
ナンシー小関でもいいってひとは、小関でもいいのだと思うよ。
でもね、オリジナリティとかそれ以前にクオリティ低いでしょ、アレ。その下手さとか、手の抜きっぷりとか、つまらなさとかを、ナンシー関が積み上げた手法で覆い隠してる部分に、おれは苛立ったんだよ。
それを「オリジナリティ」とか「愛」とか曖昧な言葉を理由に怒るから、ワケわかんなくなったんだよ。
ただ、へたくそ!って言えばよかったんだね。手間かけたって、努力したって、愛があったって、下手なもんは下手だよ。リスペクトしてもいいし、愛があるから著作権を無視して紹介してもいい、いろいろな人にナンシー関を知ってもらいたい、えらいね、頭をなでてあげよう。
でも、消しゴム版画に口出すな、下手くそで手抜きのくせに。
こんな景色を夢想するんだ。
ある日、mixiからナンシー小関が消える。トップ画像に使っていたひとたちに「もう使わないでください」というメッセージを残して。
そして数ヵ月後、Webの片隅にコ汚い下手糞な、消しゴム版画がアップされる。それは似てなくて、ギザギザの、だけど確かに消しゴムを彫って作られた版画だ。数日にひとつ、ゆっくりと腕は上達していく、そして数年後、復活したナンシー小関の個展におれと侍功夫さんが行くんだ、花束持って。
そんなときがきたら、おれは謝るよ。頭下げる。
下手な奴が下手くそなコピーした、むかつく。
それだけだったんだよ。