絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

おそろしい

ナンシー小関の存在が、おそろしい、という話。

ナンシー小関というのは、ナンシー関へのオマージュと称してパソコンで消しゴム版画風の画像を作っているひとのことです。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=356546

この違和感、不快感、異物感、どうしようもない。

たとえばおれが、絵をモデルに造形物を作る。
虎眼塔や、フリーザや、神風零を作る。
その造形物が、それなりに評価されて、おれが死んだとする。
死んだあとで、誰かが造形物のモデルとなった絵を、パソコンで加工して、造形物を写真に撮ったかのように加工して、おれへのオマージュだと、ネットで発表したとする。

おれは、そいつを、その誰かを、殺してやりたいと思う。
おれが彫刻刀を握って、数ミクロンを削りながら、絵の持つ力を立体に写し取ろうとしたことを、そのために使った時間を、こいつは指にタコを作ることもなく、その上っ面だけをなめてオマージュだと抜かす。

だがおれは死んでいる、手も足も出ない。

これは、パクリとか、そういう問題なのではない。
手法は模倣される、それは仕方のないことだ。
だがこれは、手法の模倣ではない。
繰り返す、これは手法の模倣ではないのだ。
彼は彫刻刀を握らない。
だが、そのことだけが、軽視され、隠蔽されていく。
それが、おれは、おそろしい。


追記
うわー、しょうげき。

君たちは形だけ真似しているだけで、心までは真似出来ていない、出来ていないんだー。
http://d.hatena.ne.jp/KotoriKoToriko/20060617/p1

すばらしいです。

追記2

みんなが言ってるから、と情報そのままに振り回されることは怖い。一人一人が『ナンシー関だったら』と情報に懐疑的になることで、立ち止まることができる。ナンシーさんの“突っ込み”の精神を知らない人たちにも伝えたい」と話した。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20060406/mng_____thatu___000.shtml

こうゆう「善意に裏打ちされた間抜け」ってのが一番笑えるはずで、それだけでも小関がナンシー関を好きでもなんでもないということがわかろうもんだ。まあ存命中に小関が出たら、ナンシーなら「とほほ」と嘆くか、放っておくのだろうな、とも思うのだが。

追記3
http://d.hatena.ne.jp/dogplanet/20060616/p1
犬山さんはおれの書いてることをわかってくれないみたいなんで議論にならない。おそろしいのは差異を隠蔽していく人々であって小関はどうでもいい。あと、小関をヒップホップに例えたりして喧嘩したくてたまらないみたいだけど、題材が小関なので間抜けさもさらに倍。

追記4
 ナンシー小関のせいでナンシー関が忘れ去られたり、ナンシー小関にとってかわられることはないと思う。犬山さんが指摘するとおり世間の多くのひとはナンシー関なんて知らない(徳保さんっぽいな)。ゆえに、すでに知っているひとやこれから知るであろうひとびとがナンシー関ナンシー小関を混同する可能性は少ない。
 でもおれは、そんな大きなスケールの話をしたいわけではない。もっと小さなことだ、ものすごく小さな「え?関と小関の区別がつかないひとがいるの?」という不安の話がしたいのだ。そういう個人的な不安感、違和感、異物感を表明したいのだ。
 ブクマのコメント欄にあったけど「アートは手数」というのはちょっと違う。「アート」という大きなくくりで言えば、その価値は手数ではなく視点で決まるんだろうと思う。それが手で作られようと、何かのアルゴリズムにしたがって自動で生成されようと、その価値に差はない。
 ナンシー小関が現代芸術家として大量生産した偽消しゴム版画タペストリーを二千万円で売ったとする、おれはそれに怒ったりはしない、だって手を抜くことが即その作品の価値になるからな。でもそうじゃない。パソコンで苦労して似せました、画風を手に入れるために二ヶ月かけました、ナンシー関を知ってもらいたい、等々、あまりに言い訳が多すぎないか。
 見ればわかるじゃないか、出来上がったものに明確な差異があって、それは明らかに劣化なのだ。だというのに、その差異を無視させようとする何かの力が、おれは嫌いだ。