絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

本田透=オウム真理教説

 で、今日『松永英明さんへインタビュー』に頻出した「パシーっとはまる」というあれだよな、って思った。本田透はパシーっとはまったんだ、ある種のひとに。
 信仰というものについて考えた。
 ふつうに生きてると答えって奴はなかなか手に入らない、蝶々ははばたくし、桶屋はなぜか儲かる。だけど、何もかもを知ってる風な顔をしてう、まく生きてる奴はいる。なぜだ。
「きっとどこかに答えがあるからだ」と、ある種のひとびとは考える。だから血液型占いでコミュニケートするのだし、思想書を読んでラカンデリダとエクリチュる。おれはこんな仕組みだと思うけど、君はどうかな?
 根本敬は「混沌に名前をつけると死ぬ」とか「親の因果が隣の子に報う」とか言うけれど、それだって「世界は間抜けが支配している」という仕組みを選んでいるに過ぎない。
 ただその中でも「わからないこともある」とする側と「全てわかる」とする側の両極がある。科学と宗教だ。
 科学は問う、宗教は答えをくれる。科学は間違いを認める。問いだから。宗教は絶対に間違わない、なぜなら答えだから。
 迷っている人間に心地いいのはどちらか。
 そして、ハヤシダさんがパシーっとはまっちゃう側だってことを忘れてはならない。もちろん、おれもそうだ。