絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

読解力というものは、知能とは関係ない。

 公開中の映画『ホテル・ルワンダ』を観た方が、差別発言をしているという話題。まずはこちらを参照のこと。

こんなものにリンクされて、ものすごく脱力した。
http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/50487989.html
ホテル・ルワンダ』を観た後でも、異者を排除する意識の恐ろしさを自覚できない人がいる。この事実は、映画やアートの無力さを痛感させると同時に、人類は差別や虐殺を止めることはできないのだ、と絶望的な気持ちにさせます。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225

 リンク先を見ると、パンフレットを読んでもフツ族ツチ族がなぜ支配被支配の関係にあったのかが理解できなかった方の感想であることがわかる。この辺になると、単なる読解力の問題ではないか、という気にもなってくる。
 では、リンク先の方は頭が悪いのか?私はそう思わない。
 読解力というものは、知能とは関係がない。
 何かを読解するときには、それが何を意味しているのかを知るための、努力と熱意が必要なのだ。嫌いなものを理解するのは、とても難しいことだ。
 たとえば、外国語の本を、その外国語に精通していない者が、辞書片手に読む風景を思い浮かべればいいだろう。
 まずは読めない文字の羅列から、単語を拾う。そして文法に照らし合わせて、意味を探る。その上で、その言語を使っているひとの思考を読み取らなければならない。
 何かを読解するということは、それほど難しいことだ。
 ところが、同じ文字、同じ文法で書かれた文章を読むときに、ひとはすぐ「普通」を参照してしまう。私は「普通」こう考える、私は「普通」こう思わない。
 それでは、何かを読解できるわけがない。外国語には外国語の法則があるように、他者には他者の論理がある。
 読解力の低い者とは、他者を理解する努力と熱意を放棄した者のことだ。他者を理解する努力と熱意を放棄しない者は、読解力の低い者を置き去りにしてはならない。町山氏の努力と熱意は伝わるだろうか?少なくとも私には伝わった、これこそが、批評家が見せるべき生き方だろう。
 より多くのひとが、読解する努力と熱意を放棄しないことを願う。