絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ひとり言ではなくなってしまえば、やがて対話になるか。

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 ご想像の通りです。

それぞれの議論に参加している人が目指すのは如何に自分の持つ価値の天秤と、議論の結果を近づけるか(a)、自分の意見を支持してくれる人を増やす(b)か、という勝ち負けの問題だと思います。そうでなければ、議論に参加する動機がないからです(自分の意見が無く自分以外の人々で結論を出せばよいと思っているなら参加する必要がない)。
(引用者による注()が挿入されています)

 これがそもそもの間違い(すれ違い)だと思います。議論に参加する動機は、自分とは違う意見を取り入れる(もしくは拒絶する)ため(a)であって、賛同者を増やす(b)のは目的ではない。
 (b)は明確に勝ち負けの決まる問題ですが(a)は個々の内部で解決する問題です。

議論は結論を出す、集団で何かを決める時にするもの(でもある)ので、勝ち負けが絶対の結論なのではなく、勝ち負けで結論を出さざるを得ない場合もある、というのでは議論は始まらないでしょうか? 僕が言っている勝ち負けというのは、より多くの人の支持を得る、と言うことですが(相手の間違いを指摘する、と言うのも方法の一つです)。

 そのように始まる議論もあるでしょう。宗教論争というのはそういう類の議論です。正しさの基準が「より多くの賛同者」ならば、そのために行われる議論の目的は勝ち負けです。最初の引用で付加した(b)がそれにあたります。

説明すると、議論で勝ち負けにこだわらないことが美化されすぎていると思うからです。そしてそれを根拠に、議論に参加している人を貶めるような言い方をされるのが好きではないし、不当だと思う、ある種の議論はまさに勝ち負けを決めるために行われているし、むかついたので言い負かしてやろう、というのだって、議論云々を根拠に貶すのと比べてどっちが悪い、と言えるようなことでもない、と思います。

 その通りですね、どちらが悪い、と言えることではありません。「勝ち負けにこだわらないこと」は(a)の目的で議論するための単なる前提であって、美化すべきことではないと思います。むしろ、勝ち負けで決まる議論、つまり賛同者を多く集めることが目的の議論(b)である場合、そこに「勝ち負けにこだわらないこと(a)」を主張するのはまったくの無意味、それどころが害悪であるとさえ言えるでしょう。

なので、"議論によって何か結論が出るように夢想している「理想論を掲げる奴」"にむかついている、と言うことではないです。

 なるほど、そうでしたか。間違えた推測をしてしまい、申し訳ないです。

純粋に理想の議論、というのを想定するなら、まず両者に意見の食い違いがあって、両者の意見をバラバラに分解していって、どんどん単純化していった結果、両者の違いはAを重視するかBを重視するかの違いである、と明確に把握できるようになるまでの過程、を思い浮かべます。

 確かにそれは理想の議論と言えるでしょうね。
 はじめに「(a)は個々の内部で解決する問題です」と書きましたが、その内部解決のためには、外部からの刺激がなければいけません。それが議論です。これは重複になりますが、繰り返します。
 内部で解決済みの問題を外在化して賛同者を集めるのが(b)
 内部で解決していない問題を外在化して内部に戻すのが(a)
 これは実践(1)で既に書かれていることと似ていますが、どちらも真実を見つけるためではないという点で違います。そして、どちらが正しく、どちらが良い議論であるということでもありません。