絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

議論とは勝ち負けの問題か否か。

 議論とは勝ち負けの問題ではないと口をすっぱくして言っている側の人間として、この問いに返す言葉があるとすれば、勝ち負けなどというものは誰でも求めることのできる一番簡単な解決法であって、その問題に対する解決や解決の糸口とは何の関係もない、となるだろう。
 もう少し詳しく書くなら、こうだ。

 論理的な間違いを指摘すると、論理的にチャレンジブルなひとは、話を「勝ち負け」に持っていって「おれは勝った、だからおれは正しい」という同義反復を始めるので、まずは「勝ち負け」という価値判断の基準をなくしましょう。

 そもそも議論は何のために行われるか。何らかの事象に対する答え、もしくは考えるための材料が必要だからだ。考える材料がなければ考えることはできない。その材料と自らが既に得ていた材料に齟齬があれば、比べて確かめればよい。出てきた答えや材料が自らの望むものであれ望まぬものであれ、発した人間と異論を唱えた人間の勝負であるという観点など、もとより含まれていない。
 議論するなら勝ち負けを決めろ、というのが最初に設定されるのであれば、対話自体が必要なくなる。いわゆる「おれの方が頭いいよねゲーム」や「おれの味方が多いよゲーム」というのは「ゲーム」と名の付くとおり議論ではない。「おれとお前とどっちが正しいか決めようやないか」なんてものは単なる宗教論争であって、そんなのどっちも正しいがな、勝手におし、となる。宗教こそ「たくさん仲間集めるぜゲーム」なので、正しいか正しくないかの検証は必要ない。針の上に何人天使が乗れるかを延々話あっていればよろしい、答えは神が出てこなければ永遠にわからないし、出てくれば結論を出す必要もない、神は全知全能だから何でも決めてくれる。
 簡単に書くと、議論というものは、このような絶対の結論が出ない(可能性の方が高い)からこそ続けられるものだ。もし、勝ち負け、つまり絶対の結論がどこかにあるのなら、議論は始まらないのだ。
 問題は「勝った」「負けた」という価値基準を持ち込めば、論理的な正しさは結果からは排除される、ということだ。論理的な正しさが結果から排除される状況というのは、上に書いたとおり、答えが決まっている状況だ。
「おれは強い」「何で?」「なぜならおれは強いからだ」
 対話を停止すること、応答の停止を避けるために話の筋道をずらすこと、これらは全て「勝ち負け」を価値基準点におくことで生まれる。「勝ち負け」さえ考えなければ、もしくは議論で勝とうと思わなければ、これらの問題点は回避される。議論で言うべきことがなくなれば対話は停止できるし、応答の停止を避けるために話の筋道をずらすことなど、最初から必要がない。
 ○○さんは、議論の理想論が嫌なのではない、単に「結論を求めるための議論」が嫌なだけなのだ(その理由まではわからない、個人の思考が極端に影響を受ける状況を忌避するためかもしれない、祈伏への恐怖?)。ところが○○さんは「結論を求めるための議論」が嫌だとは言わない、あくまで「勝ち負け」を決めろという。それはなぜか。
 「結論を求めるための議論が嫌だ」という結論では、完全なひとり言になってしまうからだ。それでは○○さんの求める「勝ち負けにこだわる議論」は開始できない。前提として結論が求められていないのであれば、議論する必要はない。誰も答えない、われわれはひとりぼっちだ。
 だから、○○さんはあえて「勝ち負けにこだわる議論をしましょう」と書いて文章を終わらせる。これは議論の提案ではない、議論したい奴は勝手に勝ち負けを競っていろ、という捨て台詞だ。これはもう、そう解釈するしかない。ただその、なんというか、憎らしく思う対象は「議論の理想論」ではなくて、議論によって何か結論が出るように夢想している「理想論を掲げる奴」なのではないですかねえ。それなのになぜ、その憎らしい相手を明確にしないで議論をしようと語りかけているのですかねえ、と、いやらしくひとり言を書くだけしかできないのだ。