絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

丸谷才一の(中略)コーナーその2。

前回
丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』を読んで、いま日本で何が起こりつつあるのかを考えてみようのコーナー。

 というわけで丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』を、読み終えたのである。アマゾンにリンクしておいたのだが誰も買っていない。既に持っているのだ、そして持っていない者は図書館で借りて読んでいるのだ、と好意的に解釈しておくことにする。
 そのアマゾンに書いてある書評は、こんなのだ。

この驚くべき著書を誰に読ませようとするかを思案した時に、困難さを知るのである。次世代には忠臣蔵など無意味になっている。解題して反体制劇だと理解してもレトリックさは煩瑣で、尚反体制劇など、体制迎合の次世代にとっては理解する意味をなさない。また忠臣蔵を盲信している旧世代にとっては今さら反体制劇だと分ったところで信念を動かすようなことは無い。聴衆が誰もいない中で感銘のある演説をしているような薄ら寒い思いをしている。

 あほか、と言いたい。いや、ばかにするな、と言いたい。評者は「この本の素晴らしさがわかるのは私だけ」と見せ付けたいのだろうが、そうはいかない。この『忠臣蔵とは何か』を読めば、誰でもたちどころに目が覚め、弁舌は軽やかになり、頭痛は消え去り、うせものは出てくるからだ。つまり、どういうことかというと、頭の悪いおれでも、いっしょうけんめい読めば、にごった頭がスラスラして、新しい考えが浮かぶということだ。
 この本には、人間にとって祭事とはどういう役割をもつのか、ということが書かれている。忠臣蔵が民衆の反体制欲求を満たしていた、という事実などは「祭事としての忠臣蔵」を説明するための添え物に過ぎない。冒頭に引用された会話から丸谷才一が連想し、調べ、書いたこと、それが『忠臣蔵とは何か』なのだ。

 まづ芥川龍之介がこんなことを言つた。
「元禄の四十七士の仇討ちの服装といふのは、あれは元禄でなければ無い華美な服装なものですね。あの派手な服装は如何なる時代にもなかつたやうですね。前時代から生き残つた古侍があの服装を見たらさぞ苦々しく思つたでせう」
 すると、それを受けて、徳富蘇峯が上機嫌でかう言つた。
「彼らはなかゝ遊戯気分でやつてゐるんです」
「文藝春秋」昭和二年(一九二七)三月号に載つた座談会でのことだ(以下略)
(『忠臣蔵とは何か』5P講談社版)

 乱暴にまとめればこういうことだ。

  • 日本には御霊信仰というものがあった。
    • 政治的被害者が死ぬと神として祀るという風習だ。
      • その神は災害を防ぐとされていた。
    • 江戸時代、地震、雷、火事と同じく、手を出せない災害として悪政があった。
        • 江戸の民は、圧政者(災害)を殺してもらおうと、死者を祀った。
        • 実際に圧政者を討つのではなく、芝居で討つふりをした。
          • 芝居には圧政者を殺すちからがあった(と江戸の民は信じていた)。
            • それは転じて「政治には関わりません」という逃避行動でもあった。

 今の日本でも、かたちを変えた御霊信仰は息づいている。というより、日本人は宗教と政治を御霊信仰のかたちでしか理解できない。そしてその誤解を、近代的なよそおいで隠そうとするのだ。

忠臣藏とは何か (講談社文芸文庫)

忠臣藏とは何か (講談社文芸文庫)