絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

たのしみ!ランドオブザデッド遂に公開!

 公開までに前三部作を何度も観直そう!なんてはしゃいでいたら、週刊文春の紹介記事ではこんな風に書かれていたのでもやもやした。担当記者氏はプレスシート通りの表現をしただけなんだろうけど、ちょっとこういう表現にはウンザリしていたので、文句を言うよ。まあいつものやつだよ。

ゾンビの風貌や残酷描写にばかり目を奪われることなかれ、ゾンビは時代を映す鏡なのだ。(週刊文春7月14日号)

 うん!その通り!ただはらわたブチ撒けるだけじゃないんだよね、ロメロの映画は深いテーマ性があるから素晴らしいんだよ……ってさ、ちょっと待って、それはつまり深いテーマ性のない映画は一段低いって意味なのか?
 それはおかしいだろう、だって映画は映画としてほめられたりけなされたりするべきだもの。「時代を映す鏡」って言ったって、面白いものもあれば、つまらないものもある。それなのに「時代を映す鏡だから素晴らしい」と言ってしまっては、まるで映画として面白くないみたいじゃないか。
 ロメロのゾンビ映画が素晴らしいのは、社会批評が含まれているからじゃない。ただ、面白いから素晴らしいのだ(もちろんエクスプロイテーション映画としての価値は「時代の鏡」らしさにあるのだけれど、それを抜いたってロメロの映画は面白い。ほんとうだよ)。
 ゾンビ映画を観るときは、現実のことなんて知らなくていいと思う。スクリーンに映るその事件に遭遇して、恐怖すればいいのだ。そして映画館を出て、周囲の風景が何かおぞましい正体を隠していることにさえ、気づけばいい。
 映画を観終わったあとで「あなたの心には何が残りましたか」なんて訊かれてもぼくには答えようがない。物語の中で描かれたものは全部残っている、だがそれがどうした?素晴らしい映画を観たからって、おれが素晴らしくなれるわけじゃない、こんな質問をされてすぐに答えが出せる奴は、きっと素晴らしい奴に違いない。
 だけど、素晴らしい映画を観たあとは、何かが変わっている。それはきっと、心に残った何かのせいじゃない。何かが残るのは、脳だ。
 素晴らしい映画を観たぼくたちの脳には、映画と同じ色のフィルタがかかっている。そのフィルタは、ぼくたちが普段見過ごしているものを、現実のもやに隠れたものを、くっきりはっきりと見せてくれる。インチキ、デタラメ、そしてウソ、目をそらせばすぐに見えなくなるいろいろなものが、映画を観たことで浮き彫りになってしまう。それは怖いことかもしれない、だけど、現実なんてそんなもんだ。それに、フィルタは次第に薄くなっていく。いつもの日常が戻る。我慢する、苛立ちを流す、スカした態度で頭のいいフリをする。そうでもしなけりゃ生きていけないのだから情けない。だけどそれ以外にどんな方法がある?ショットガンでも買ってムカつく奴らを殺してまわるのか?そんなのぜんぜん面白くないよ!
 そんなことよりも、もっと面白い映画が観たい!
 その面白さを分析したときに「時代の鏡だから」という解釈が出るのはまったくかまわない、というかうれしい。むしろ、そういう普通は気づかないところに気づくのが批評家の仕事ってもんだろう。だけど映画観る前に監督が言うとおりに「この映画は社会批評で〜」なんてほざくことにどんな意味があるっていうんだ。それで客が増えるのか?お前の頭の良さと動員数に何か関係あんのか?!この映画は絶対にすげえ怖いしすげえかっこいいんだよ!観るとショックでトラウマになります!って広告しろ!してくれ!してくださいお願いします!