絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

うまく反論できるようになるために

面白い質問を見つけたんだけど、もう18人も答えているし、こういうことに対して明快な回答を書いたサイトなんて見たことがないので、答えないで考えてみることにした。ちなみにぼくは屁理屈屋なのでこの質問者の敵かもしれない。

質問 他人の話を聞いていて、「それはちょっと違うんじゃないの?」と何となく思う時があるのですが、
何がどう違うのか言語化して相手に上手く説明(反論)する事が出来ません。
これが上手く出来るようになるには、具体的にどのような修行を積めばいいのでしょうか?
http://www.hatena.ne.jp/1117101911

 会話中に浮かんだ考えを言語化するのは、それほど難しいことではない。問題は相手に対して有効な反論として、その言葉を発することができるかどうかにある。そのためには自分の考えをまとめればいいのだということまでは、質問者には理解できている。考えさえまとまれば、反論はできるのだ。
 なるほど確かにそうだろう、ではどうやって考えをまとめるのか。
 ぼくはここで、一人でも可能な訓練法を考えることにした(最初は単なる対処法を書いていたのだが、訓練のためとして紹介されたページと同じようなことを書いていたので、一人用に改定した)。

  1. 脳を二つ用意する
    • まずは、相手の意見を理解するための訓練をしよう。対話中の不満が、ほんとうに相手の意見に対して生まれたものなのか、相手の言葉使いや態度などから生まれたものではないのかを見極めよう。雑誌などで不満を感じる文章を声に出して読む。そのときに、最初は思ったとおりの読み方で、次に感情のない棒読みで読んでみよう。もし棒読みでも不快感を感じるようであれば、それは内容が不快なのだ。
  2. 文章ひとつひとつに対して、めくらめっぽうに反論をしてみよう
    • 段落単位でその文章を否定するのだ。もちろん喋りながら、だ。最初は難しいかもしれないが、繰り返せば筆者が聞いたらその場でショック死するほどの悪口が出てくるようになる。内容は間違いでもかまわない、これは相手の意見に反応する訓練なのだ。慣れてきたら、段落から章、章から全体へと範囲を広げていこう。次第に自分でも無茶だと思うレベルの罵詈と、納得のいく批判が分離してくるのがわかるはずだ。これは相手の文章を理解し、その間違いに気づくための過程で必ず出会う自分との戦いなのである。自分の不快感は、自分にとっては正義だ。だが、それが正義であるからといって「論理的に正しい」という保障はない。論理的に正しくない反論では質問者の理想とする反論はできない、なぜならそれはどれだけ論理的な装いを気取っても「うるさーい!嫌だ嫌だ!」と叫ぶ子供のわがままと大差ないからだ。自分の感じた不快が単なる感情から生まれたのか、それとも相手の誤謬から生まれたのか。その区別をつけるためにも、まずは全面罵倒を練習しよう。
    • さあ、慣れたら次の相手はテレビだ。
  3. 順を追って紙に書く
    • このためにいつでもメモ帳とペンは常備しておこう。テレビを見て不快になったら、メモ帳とペンを取り出す。そして一から話題をおさらいするのだ。もしテレビ番組の論理に矛盾があればそこで明確になるし、なくても不愉快さの原因は明確になる。メモを取り出すときは、必ず自分に対して「私は論理的思考が苦手なのでメモ帳を使います」と宣言をしよう、これは「いつかメモを使わなくても論理的思考ができるようになる」と自分に言い聞かせるために必要な儀式なのだ。ここでブログや掲示板を使うことを私はおすすめしない、なぜなら質問者は既に理解しているであろうとおり、ネット上には教師に比べても数倍多くの下級生がいるからだ。ブログや掲示板を使った不毛なコミュニケーションに快感を感じる変態でないのなら、相手は紙のメモ用紙で充分である。敵は自分であり、最高の教師もまた自分であるということを胸にしまっておこう。
  4. 不満を感じる部分について考えよう
    • 反論相手の意見がまとまったら、その中で不満を感じる部分についてピックアップしよう。1で使った手法を適用して、徹底的に苛め抜こう。そこでできあがった自分の反論は、できれば一晩、我慢できなければ3時間は見直さずどこかにしまっておこう。そして時間がきたら、もういちど見直すのだ。そう、1で使った手法を用いて! 訓練の初期には、落ちた肩が戻らないくらい自分の論理に穴が多いことに気づくだろう。だがそこで落ち込んではいけない、それはきみが成長した証なのだ。ところで、脳の言語野というのは、映像と音声の二部構成になっているらしい、これは素人の想像だが、喋ることと書くことを同時に行うとディベート能力が高くなるのは、それが理由なのではないだろうか。
  5. 地道な訓練が必要なのだ
    • おそらく質問者の理想は、上記のような手続きをとらずに反論することなのだろうが、それは不可能だ。脳は筋肉と同じで鍛えないと思い通りには動かないからだ。そのためには上記の訓練を繰り返すしかない。大切なのは、考えることだ。テンポのいい会話、早口、大声などにだまされないように、常に自分のペースで考える癖をつけよう。相手のスピードに惑わされたら、普段なら思いつくようなことにだって気づけなくなるのだ。
  6. さいごに
    • 物事を単純化したり図式化するのは、気持ちがいいが危険なことだ。脳というのは、いろいろなものにパターンを見つけては納得する能力が高いらしい。確かになければ疲れる能力だろう。パターンを認識し、記憶できなければ、いろんな種類のコップを見るたびに「そうか!これは液体を入れる器なのだ!」と驚かなきゃいけなくなるのだから。だが、相手がコップなら問題はないが、それが人間関係や社会の仕組みになると話が違ってくる。パターンに見えたものが、角度を変えればまったく違った姿になるのもよくあることだ。訓練を続けていく過程で、何度も「わかった!」と思うことがあるだろう、だけどもし「どんな議論でも勝てるんじゃないだろうか?」と思ったら、その予感に1のダメ出しを行おう、議論に必勝パターンはない、大切なのは、自分の打ち出した論理に対する冷静な批評眼なのだ。

おしまい
 あとがき:何だか自分に向かって書いているような気持ちになった。ポイントは「敵は自分であり、最高の教師もまた自分であるということを胸にしまっておこう。」という文章を真顔で書いたところ。