絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

『コンスタンティン』について偉そうな意見を見たので反論してみる。

 パロディやオマージュや二次創作を見て、それらのモトネタを無視したうえで批評するのは、まあ勝手にやればいいと思う。だけど、たまにモトネタを知ってるくせに間違えて批判している場合があって、苛立つことがある。なんだろうなあ、これはひどい、と思うのです。

こんな映画が、世界市場を席巻する映画として存在できること自体が異様なことだ。(中略)父と子と精霊の三位一体のことばが、聖書から引用されるが、悪魔=エイリアンには通用しない。『福音書』のイエスのことばが、有効ではない世界が、カソリックで許容されるだろうか、心配になってしまう。こんな映画を製作してはいけない。とりわけ、この圧倒的に非対称な世界では。
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 たくさん映画を見ているようなのに、何でこんな感想になってしまうのだろ。このひとにとって、映画というのは、信仰や信条よりも下に位置するのだろか。
 観ているひとならわかるだろうけど、聖書の引用は、立派にハーフブリード(悪魔人間)に対する脅しとして活用されていました。ところが、この感想の著者は事実をゆがめて、勝手に心配しています。なぜこんな曲解をしてしまうのでしょうか?
 簡単に言えば、このひとの書いていることは『指輪物語』に対して「世界がキリスト教化=グローバル化しているなかで、魔王の支配下にあることが前提の映画とは、いかなる意味を持つのだろうか。イスラム教徒や仏教徒(日本人の多くがそうだ)にとって、別世界の出来事にすぎない。」って言うようなもの、なのです。
 つまり、的外れなの。どんなファンタジー映画でもいいけど、その世界のルールが現実と違うからといって批判する批評などが、あり得ると思いますか?(しかも、このひとは「キリスト教を題材にするのだから、批判的でなければならない」という意見なの。そんな決まりはどこにもないよ!)。だから、ぼくはこんな感想を持つ。このひと『マトリックス』好きだって言うけど、おかしいじゃないですか、あれはコンピューターに管理された社会で仮想現実から脱出するって話なんだから、実際には管理されていないぼくらにとっては別世界の話ですよね。と。

そもそも、天国と地獄のバランスとは、何を指すのか。政治的・社会的な寓意だの、グローバリズム批判だのが背景にあれば、それなりの説得性を持ったであろう。

 そう、もうわかったね、このひとは、なんか難しく考えすぎているのだ。教えてあげよう、天国と地獄のバランスとは「天国と地獄のバランス」を指すのです!『指輪物語』における指輪が「世界を統べる指輪」でしかないように、『スキャナーズ』の超能力が「頭が吹っ飛ぶ超能力」でしかないように、映画に出てくるものが、それ以外である必要はないのです。もちろん、監督によってはインタビューで「カラス神父が登場するときは必ず画面の下から上に昇る……これは彼が最後に天に召されることを暗示しているんだ」なんてことを言ったりするひともいるし、基本的にはあらゆる映像表現は文字通り何かを表現しているけれど、それは、映画に出てこない「政治的・社会的な寓意」などではありません。
 政治的・社会的な寓意がタップリのグローバル批判にまみれた映画が観たいのなら、そういう映画を探して観ればいいんですよ。少なくともこのテの映画を観るべきじゃない、と思います。

 なんて書いたあとで、批判対象を読み直したけど、これ、間違いだらけだなあ「神はいない」んじゃなくて「子供みたいなもので何も考えていない」だけだし「ラストシーン」はテーマとは何の関係もないし、ガブリエルは天使じゃないし。あーもう、怒って損した、バーカバーカ。