絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

読んでほしい本

 リチャード・ドーキンス悪魔に仕える牧師』はとても良い本だけど、科学啓蒙書好きが常に相対する「科学啓蒙書嫌い」にこの本を読ませる方法が見当たらない。
 先日も、友人の文化相対主義者と口論になって「科学に対する信仰心があるだけで、結局宗教と同じだ」なんて事を言われたものだから、つい「信仰というのは、信じるのが目的なのであって、信仰の対象に対する疑いがあってはならない。つまり、科学に対する信仰心は存在し得ない!」と反論してしまった。
 科学は方法であって目的ではない。目の前で奇跡が起こったら、その理由を解明しようと思うのが科学的思考って奴なのだ。宗教は信仰する心を持つがゆえに、起こらなかった事実を支持しなければならない。
「ぼくは目の前で奇跡が起こったときに、それが科学的ではないと言って否定したりはしない」ところが、ぼくがそう言うと「麻草さんは頑固だから否定するに決まってる」と決め付けられてしまった。
 決め付けられてしまったのだ。
 なぜ、そのような決め付けが行われるのだろうか。それは、信仰には証拠が必要ないからだ。むしろ、証拠を必要とする考えそのものが、信仰にとっては悪なのである。念仏を唱えること、特定の教団に浄財を喜捨すること、それらが具体的にどのような効果をもたらすのか、その説話は山のようにあれど、実質的な因果関係は証明されない。
 想像してほしい、あなたが飛行機で旅行しようと思い、空港に行く、すると、係員が大きな羽根と蝋を持って近づいてくるのだ。笑顔で。だがあなたは快く蝋を受け取り、羽根と腕を蝋で固める。羽ばたくために。もちろん、イカロスの羽根で空を飛ぶことはできない、飛翔に必要な揚力が得られないからだ。
 だが、現実には多くの人間がイカロスの羽根を欲している。
 ぼくが子供の頃、母親は宗教狂いだった。ぼくは、言葉と同時に、母親の信じていた宗教の教義を与えられた。幸運だったのは、母親が宗教マニアで、あらゆる宗教を渡り歩いていたということだ。幼いぼくの脳には、さまざまな教義が詰め込まれた。宗教に限らず、ニューエイジやオカルトの類までもだ!そして、14才のある日、全ての矛盾が解明した。宗教は「証拠のないもの、根拠のないものについて、考える」という遊びなのだ。根拠がないからいつまでも遊んでいられる。針の上に天使が何人立てるか知っているか?(ぼくは、そんなことを知るために、生きてるんじゃない!)
 イカロスの羽根を望むひとびとは、心が弱いわけでも、頭が悪いわけでもない。その多くが、選択の機会を奪われただけだ。子供の頃からひとつの教義を叩き込まれれば、矛盾を許すことこそ信仰なのだと気づいてしまうだろう。そうなれば信仰心は磐石だ。あらゆる疑い、考察、洞察、観察が無意味になる。
 証拠を求めるのは、信仰を揺るがす愚かな行いだからだ。

 文化相対主義者は言う「ぼくは特定の信仰は持っていないが、君のいい草は独善的すぎる、それは科学に対する信仰だろう?もっと寛容にならなきゃ」冗談じゃない、ぼくは個人の信仰は認めている。精霊信仰や、祖霊を個人の方法で拝むこと、ぼくの友人が、車にはねられて側溝に落ちた猫を、手が汚れるのもかまわずに植え込みの中に移動させ、手を合わせたのを、否定はしない。それは、思いやりや、慈しみの心なのだから。
 ぼくは、子供に教義を叩き込み、他の宗派を憎むように仕向ける連中を、許さない。それを不寛容とする文化相対主義者は、宗教の指導者に対してどんな言葉をかけるのだろうか。