絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

『エクソシスト』ASIN:B00009CHCLすよ。

 監督のコメンタリーが、ボソボソ真面目に解説するだけなので非常に眠くなったのですけれども、とても面白かった。すごく真面目に「悪魔と神父の戦い」を描いているんだよ、と、一片の曇りもない感じ。地下鉄の階段を登りながら現れるカラス神父の場面に「カラス神父は……必ず上昇しながら現れるんだ……これは物語の最後で死んだ彼が天に向かうさまを暗示している……」とか解説したり。正しいコメンタリーの一面をあらわしていると思う。眠いけど。
 で、こういう意見について考えた。

「実は『エクソシスト』という映画は少女に悪魔が取り付く話だから大ヒットしたのではない」と看破したのはたしかスティーブン・キングだった。
本当は、それまで可愛かった娘が、思春期(12歳)になった途端、汚い言葉を吐き、親に暴力をふるい、セックスをし、自傷行為に及ぶようになる、という親の恐怖を描いていたから、あれほどヒットしたのだと。
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 ていうのは「売れた理由」であって、作品の意図がどうか、という話ではない。はずなんだけど、何かまるで「親の恐怖を描いていたから」すばらしいんだ、みたいな話になってしまっている。ちょっとそれはおかしい。たしかに、無神論者であるぼくにとっては「神への冒涜」や「悪魔がとりつく」ことが直接恐怖には結びつかないから、パズスが姿を現すカットに「本当に悪魔でした!」という驚き*1以上の恐怖は感じないけれど、あの映画を「ヒステリー発作を起こした少女と、トラウマ神父の喧嘩」だと思うことが、良いことだとはぜんぜん思わない。
 自分の信じるものの為に死んだ男の死に対して、神様いねえし、なんて暴言は吐けないのだ。彼にとってそれは死を賭すべきものだったのだから*2。そりゃ、カレー食って辛いよ、と文句を言うようなものだ。
 とまあいろいろ考えていたら、mixiで、同じ件に関してもっと深くて面白い考察をした日記を見つけたんだけど、友人限定公開日記なので紹介できないのでした。

*1:無神論者にとっては、いないはずの幽霊や悪魔がいることこそが、恐怖なのである。

*2:もちろん自爆テロを行った者は周りの人間を救うためではなく殺すために死んだのでバカにしますが