絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

空疎な解釈

現実とリンクしない第2次大戦オタク映画を作り、戦争の悲惨さやイデオロギッシュな問題から「製作者側が」目をそらしているのに、なぜ「誰も責任を取らない」なんて言えるのだ。社会や制度、戦争の本質を問うことなく、やっかいな問題から目をそらしているのは、この映画の作り手だろう。
id:furuta2001:20050306

 上記の如き空疎な批判が、淘汰されることを願ってやまない。
 映画というのは、描かれたものだけが、映画なのだ。その後ろに何かを見たなら、それは映画によって見せられたものなのである。ときどきそれを勘違いして、映画を見ては「こうすればいいのに」といった式の批判をする者がいる。それは冗談の部類に入る言説であって、批評批判と呼べたものではない。
 映画によって見せられた何かを、あたかも自らのうちに自明であるかの如く振舞う行為のどこが、映画に対して真摯であると言えるのか。
 上映中、トチ狂った右翼によってスクリーンが切り裂かれないことを不安に思うほど、この映画からは天皇が排除されていたのだ。それが逃げであると断ずるならば、なぜそこまで排除したのかを想像するべきではないのか。
 映画において、既製品を使わず、徹底的に現実を排除する行為が、どれだけ大変なことかも想像できない者に、映画を語る資格はない。