『げんしけん』の話
実はまだ、5巻を買っていない。それは、なぜか。
読みはした、マンガ喫茶で。というか、マンガ喫茶で読んでから購入を決めるおれだ。見るべき場所はたくさんあった。面白いマンガだと思った。だけど、いま おれの本棚にげんしけん5巻はない。なぜだ。
まァ、結局、荻上が嫌いなんだな。
なぜかというとあのアホ毛、あれは萌え記号なわけであるが。
ちょっと待て、おい待て。と。
いいんだ、大野や咲が可愛いのは。だってマンガ内でも可愛いって設定じゃん、アレ。だから大野が眉毛手入れしていても「レイヤーだしな」で済ませるし、咲に至っては斑目レベルで「ホウ」とため息をつくこともある(キモい)。
だがなあ、荻上は違うだろう、アレはだって、本物だろう。
何で笹原の妹は不細工に描かれているのに、荻上はそうじゃないんだ?
あのアホ毛は、現実には単なる無駄毛であって、左右対称でもなければ、真横に長く伸びもしないはずなんだ。アレは荻上が、マンガのキャラみたくなると思い込んで、もみ上げを伸ばしているだけであって、けっしてあんなビヨンビヨン動く硬い物質ではない。
しかもほんらいは、伸ばしているというよりも、伸びていると言った方が正しい毛なのである。
なのに、描かれるその姿は、萌えキャラなのだ。どういうことだ。
……そこにおれは、オタクではない木尾氏のファンサービスを見てしまう。
『げんしけん』は、オタクの成長物語であった。自らがオタクであることを認めた者が、更にその外へと向き合う、そんな物語だった。その役目は笹原から斑目に受け継がれ、基本的には変わっていないはずだ。
だが、その成長の是非は描かれているか?
そう、もはや『げんしけん』のメイン読者は「オタクを奇異な目で見る一般人」ではない。劇中アニメでしかなかったはずの『くじびきアンバランス』を商品として消費してしまう、本物のオタク共なのだ。
オタクが望むものを、提供するとなれば、萌えキャラ投入もいたし方あるまい。
おれは切望する、本当のオタクサークルなら絶対にいるはずの、地雷女の物語を。あの『5年生』を描いた木尾氏なら、内臓が裏返るような地雷女にまつわる事件を描けるはずだ。
おれは切望する、自らが可愛いと気づいた荻上が、髪型を変え、化粧をおぼえ、服装に気を使うようになったときを。搾取する側へまわる、そのときを。
そんなときが訪れないこともまた、同時に願ってはいるのだが。